世界大百科事典(旧版)内の飛驒屋久兵衛の言及
【国後・目梨の戦】より
…しかしアッケシ(厚岸)・キイタップ(霧多布)・国後など,いわゆる〈奥蝦夷地〉のアイヌ民族と松前藩の関係は若干異なった状況にあった。アッケシには寛永年間(1624‐44)藩主の交易場として商場(あきないば)が設置され(〈蝦夷地交易〉の項目参照),次いで1701年キイタップに,54年(宝暦4)国後に設置されたものの,3商場の経営は73年(安永2)まではアイヌ民族との交易を主軸とするもので,翌74年以降3商場が飛驒屋久兵衛の請負となった後も,数年間は交易を主とするものであった。しかも18世紀以降ロシア人が千島列島を南下しはじめるや,この地域のアイヌ民族はロシア人とも交易するようになったのである。…
【千島列島】より
…17世紀末以降,南から日本人,北からロシア人の進出が顕著になった。松前藩は,17世紀初頭より道東の厚岸(アッケシ)を中継地として間接的に千島交易を行っていたが,17世紀末には東部の霧多布(キイタップ),次いで1754年(宝暦4)国後(クナシリ)に商場(あきないば)(場所)を設け,74年(安永3)厚岸,霧多布,国後の3場所を飛驒屋久兵衛に請け負わせた。 ロシア人は,17世紀末にカムチャツカを征服した後,そこを足場にして南下を開始し,1697年コサックの首領アトラーソフVladimir V.Atrasovがカムチャツカより北千島を望見,1711年(正徳1)アンツィフェーロフDanila Ya.AntsiferovとコジレフスキーIvan P.Kozyrevskiiがシュムシュ島,パラムシル島に遠征し,39年(元文4)にはベーリング探検隊の支隊シパンベルグMartyn P.ShpanbergとウォールトンVilem Val’tonが千島列島を南下して仙台および安房沖に達した。…
【ツキノエ】より
…翌年アイヌたちのロシア人襲撃に加わったが,73年(安永2)には和を結びロシア人との交易を行った。74年国後場所請負人飛驒屋久兵衛派遣の交易船を襲ったため76年から81年(天明1)まで松前藩は交易を中止したが,のち藩側と和睦した。89年(寛政1)の国後・目梨地方のアイヌ蜂起には息子が蜂起に加わっていたが,厚岸の首長イコトイ,ノッカマップの首長ションコとともに藩側に立ってアイヌに降伏をすすめ,蜂起参加者を取り調べたうえで藩に渡した。…
※「飛驒屋久兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」