デジタル大辞泉
「飯尾宗祇」の意味・読み・例文・類語
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飯尾宗祇
没年:文亀2.7.30(1502.9.1)
生年:応永28(1421)
室町時代の連歌師。号は自然斎,種玉庵など。誕生地は紀伊国,近江国両説があり,飯尾姓についても確証はない。30歳を過ぎてから連歌に志し,高山宗砌,のち心敬,専順に師事した。文正1(1466)年,46歳で関東下向,以後7年間おもに関東にあって,連歌論『長六文』『吾妻問答』の述作,白河への旅行,『河越千句』への一座,東常縁より古今集秘説の受講,『三島千句』の独吟など精力的に活動し後年の飛躍の基礎を築いた。文明4(1472)年帰京の後種玉庵を建て,和歌,連歌の会や古典講義に休む暇もなく同7,8年には後土御門天皇に句集を進覧。また8年1月には室町幕府の連歌会始めに初めて出仕するなど,名声があがり,長享2(1488)年には当時の連歌界で最高の名誉職である北野連歌会所奉行に任じられて名実ともに斯界の第一人者となった。明応4(1495)年,75歳のとき准勅撰の『新撰【G7EDF玖波/つくば】集』を奏覧,同9年越後へ下向,2度の正月を同地で過ごしたあと,宗長に伴われて駿河へ向かったが,途中箱根湯本の旅宿で没した。 句集に『萱草』『老葉』『下草』,連歌論に前記のもののほか『宗祇発句判詞』『老のすさみ』『宗祇初心抄』などがあり,古典研究に『源氏物語不審抄出』『伊勢物語山口記』『自讃歌注』,紀行に『白河紀行』『筑紫道記』などがある。その後半生は特に旅に過ごすことが多く,7度の越後下向をはじめ,関東,九州にも足跡はおよび,各地の武士に京の文化を伝えた。生涯,連歌と古典研究に精進した刻苦勉励の人で,臨終の床でも「ながむる月に立ちぞうかるる」の句を沈吟し,「我は付けがたし,皆々付け侍れ」とうわ言をいうなど,最後まで連歌に執念を燃やした。三条西実隆とは特に親しく,門弟には肖柏,宗長,宗碩らがいる。<参考文献>伊地知鉄男『宗祇』,金子金治郎『宗祇の生活と作品』,島津忠夫『連歌師宗祇』
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世界大百科事典(旧版)内の飯尾宗祇の言及
【宗祇】より
…室町後期の連歌師。別号は自然斎,種玉庵。姓は飯尾というが確かではない。生国は紀伊とも近江ともいわれる。若年より京都相国寺に入り,30歳のころより連歌に志したという。宗砌(そうぜい),専順,心敬に連歌を学び,東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受けた。1473年(文明5)以後,公家や将軍,管領の居住する上京(かみぎよう)に種玉庵を結び,三条西実隆,細川政元らの公家や幕府の上級武士と交わった。また畿内の有力国人衆や周防の大内氏,若狭の武田氏,越後の上杉氏ら各地の大名を尋ねている。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」