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室町後期の連歌師。別号は自然斎,種玉庵。姓は飯尾というが確かではない。生国は紀伊とも近江ともいわれる。若年より京都相国寺に入り,30歳のころより連歌に志したという。宗砌(そうぜい),専順,心敬に連歌を学び,東常縁(とうのつねより)より古今伝授を受けた。1473年(文明5)以後,公家や将軍,管領の居住する上京(かみぎよう)に種玉庵を結び,三条西実隆,細川政元らの公家や幕府の上級武士と交わった。また畿内の有力国人衆や周防の大内氏,若狭の武田氏,越後の上杉氏ら各地の大名を尋ねている。88年(長享2)北野連歌会所宗匠となり,名実ともに連歌界の第一人者となった。この職はまもなく兼載にゆずり,95年(明応4)兼載らと《新撰菟玖波(つくば)集》を編集した。生涯を通じたびたび各地を旅行したが,1502年弟子の宗長,宗碩(そうせき)らに伴われて越後より美濃に向かう途中,箱根山湯本の旅宿で没し,駿河国桃園(現,裾野市)定輪寺に葬られた(宗長《宗祇終焉記》)。享年82歳。
応仁の乱以後,古典復興の気運が盛んとなり,地方豪族,特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行がみられた。宗祇は,連歌本来の伝統である技巧的な句風に,《新古今集》以来の中世の美意識である〈長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心〉を表現した。全国的な連歌の大流行とともに,宗祇やその一門の活躍もあり,連歌の黄金時代を迎えた。連歌作品に,〈雪ながら山もとかすむ夕かな(宗祇)/行く水とほく梅にほふ里(肖柏)/川かぜに一むら柳春みえて(宗長)〉に始まる《水無瀬三吟(みなせさんぎん)百韻》や《湯山三吟(ゆのやまさんぎん)百韻》《葉守千句(はもりせんく)》があり,句集に《萱草(わすれぐさ)》《老葉(わくらば)》《下草(したぐさ)》,紀行文に《白河紀行》《筑紫道記(つくしみちのき)》,連歌論書に《吾妻問答(あづまもんどう)》《浅茅(あさぢ)》などがあり,古典の注釈書も多い。〈世にふるもさらに時雨の宿り哉〉(《老葉》)などが秀句とされ,和歌の西行,俳諧の芭蕉とともに連歌を代表する漂泊の詩人である。
執筆者:鶴崎 裕雄
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室町時代の連歌師。生国は近世には紀伊説が広く行われたが、近江(おうみ)の出自らしい。若くして上洛(じょうらく)し、相国寺の僧坊に入ったことがあった。30歳ごろから和歌、連歌に専念し、初め宗砌(そうぜい)に、ついで専順につき、1461年(寛正2)独吟の『何人(なにひと)百韻』が現存する最初の連歌作品で、それ以後、諸所の連歌会に一座し、『熊野千句』に加わるまでに頭角を現してくる。66年(文正1)第1回の東国下向、関東流寓(りゅうぐう)中の心敬に会い、『河越千句』に一座するなどして関係を深め、宗砌風に心敬風を取り入れて連歌を大成。73年(文明5)帰京後は、種玉庵の草庵を営み、自撰(じせん)句集『萱草(わすれぐさ)』を編み、先達7人の句を集めた『竹林抄』を撰し、やがて、心敬、専順ら没後の連歌界に第一人者となって活躍する。一方、71年伊豆に出陣中の東常縁(とうつねより)より『古今集』の講釈を聴聞し、古今伝授(こきんでんじゅ)の基となる。80年大内政弘(まさひろ)の招きにより山口に下り、その勢力下の北九州を回って、『筑紫道記(つくしみちのき)』を著し、88年(長享2)には北野社の連歌会所奉行に就任、94年(明応3)には兼載とともに『新撰菟玖波(しんせんつくば)集』の撰進に着手し、翌年奏覧して准勅撰の倫旨(りんじ)を賜る。大名高家に招かれて、しばしば旅をし、1500年(明応9)越後(えちご)へ出立、02年(文亀2)越後から信濃(しなの)、上野(こうずけ)を経て美濃(みの)に向かう途中、7月30日箱根湯本の旅宿で病没する。『萱草』のほか『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』などの連歌句集があり、高弟の肖柏(しょうはく)、宗長とで巻いた『水無瀬(みなせ)三吟』『湯山三吟』の百韻連歌は著名。連歌論書にも『長六文(ちょうろくぶみ)』『淀渡(よどのわたり)』『分葉(ぶんよう)』『吾妻(あづま)問答』『老のすさみ』など数多い。歌集に『宗祇法師集』があり、『古今集』『源氏物語』など多くの古典を講釈し、また、その注釈の書を残している。のちに、旅の詩人として、さまざまの伝説が生じ、芭蕉(ばしょう)などにも影響を与えている。
[島津忠夫]
『伊地知鉄男著『宗祇』(1943・春梧堂)』▽『江藤保定著『宗祇の研究』(1967・風間書房)』▽『小西甚一著『宗祇』(1971・筑摩書房)』▽『金子金治郎著『宗祇の生活と作品』(1983・桜楓社)』
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1421~1502.7.30
室町中期~戦国期の連歌師。号は自然斎・見外斎・種玉庵。姓は飯尾(いのお)とも伝えるが確証はない。出生地には近江説・紀伊説がある。連歌は宗砌(そうぜい)に師事し,古典学を一条兼良に,和歌を飛鳥井雅親と東常縁(とうつねより)に学んだ。応仁・文明の乱に際し関東に流れ住み,52歳のとき京に戻って種玉庵を結んだ。ここで「新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」を編纂。68歳で北野連歌会所奉行となる。三条西実隆との親交を通じて宮中ともかかわり,越後国や周防国山口にたびたび赴いた。箱根湯本で客死。代表作「水無瀬(みなせ)三吟」「湯山(ゆやま)三吟」など連歌が数多く残り,自撰句集「老葉(わくらば)」,連歌論書「吾妻問答」ほかがある。古典研究にもすぐれた中世連歌の最高峰で,門人に宗長・肖柏・宗碩(そうせき)らがいる。
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…別名《すみだ川》。宗祇の初期の著作で,1467年(応仁1)または70年(文明2)に,長尾孫四郎(景春か)などの東国武士に書き送った。連歌の歴史,付合(つけあい),学習法,作法故実などを,26条に分けて問答体で記述。…
…会津の出身。青年期に東国へ流寓していた心敬,宗祇に学ぶ機会を持ち,20代の半ばころ京都へ出て活動し,38歳のとき北野連歌会所奉行となる。宗祇とともに《新撰菟玖波(つくば)集》の編集に当たり,1495年(明応4)完成するが,編集方針などで宗祇と確執があったことでわかるように,宗祇といろいろな意味で対立的な立場にあった。…
…室町時代に入って二条家の末流である東常縁(とうのつねより)が,東家に伝わる秘伝のほかに頓阿の流れをくむ尭孝の秘伝をあわせて,いわゆる古今伝受の原型をつくった。常縁はこれを連歌師の飯尾宗祇に相伝し,以後この系統が古今伝受の正当とみなされ尊重されてゆく。この後,宗祇はこれを三条西実隆,近衛尚通(ひさみち),牡丹花肖柏などに相伝し,ここで古今伝受は三流に分かれる。…
…室町時代の連歌集。一条冬良(ふゆら),宗祇ほか編。1495年(明応4)成立。…
…応仁の乱で美濃守護代斎藤妙椿(みようちん)を頼り,春楊坊を結庵,その地で没した(戦乱の犠牲か)。晩年には宗祇が師事し,《美濃千句》《表佐(おさ)千句》がある。《新撰菟玖波集(つくばしゆう)》中,心敬,宗砌(そうぜい)についで連歌師では第3位の入集句数。…
…連歌撰集。宗祇編。1476年(文明8)成立。…
…代々二条派の歌人であった東家に伝わる歌学を学び,さらに頓阿の流れをくむ尭孝法印に師事して,当時の二条派歌学を集成した。1471年に連歌師宗祇に《古今和歌集》を講釈し,秘説を相伝した。いわゆる古今伝授であり,宗祇が講釈の聞書を整理したのが《古今和歌集両度聞書》である。…
…これは芥川竜之介の《鼻》の種本の《今昔物語集》や《宇治拾遺物語》の中の禅智内供(ないぐ)または禅珍内供のような長い鼻の場合も同じである。また,嵯峨の野辺に住む僧の鼻が高く醜いのを見た連歌師宗祇は,庵の庭に咲く卯の花(うのはな)に短冊を結んで〈さかばうのはなにきてなけほととぎす〉と詠んだ。これを〈嵯峨坊の鼻に来て鳴け〉と読んだくだんの僧が怒って説明を求めると,宗祇は〈咲かば卯の花に来て鳴け〉だといい逃れたという(《塵塚物語》)。…
…1巻。後鳥羽院の水無瀬の廟に奉納するために,宗祇とその高弟の肖柏,宗長を連衆(れんじゆ)として,1488年(長享2)正月22日の院の月忌に山城国山崎で張行された〈賦何人連歌(ふすなにひとれんが)〉の通称。宗祇の発句〈雪ながら山もとかすむ夕かな〉および宗長の挙句〈人をおしなべみちぞただしき〉は,それぞれ《新古今和歌集》所収の院の〈見わたせば山もと霞む水無瀬河夕は秋となに思ひけむ〉(巻一),〈おく山のおどろがしたもふみわけてみちある代ぞと人に知らせむ〉(巻十七)を本歌とする。…
…〈湯山〉のよみは〈ゆやま〉とも。1491年(延徳3)10月20日,宗祇とその高弟の肖柏,宗長を連衆として摂津国湯山(有馬温泉)で張行された〈賦何人連歌(ふすなにひとれんが)〉の通称。発句〈薄雪に木の葉色こき山路かな〉(肖柏),脇句〈岩もとすすき冬やなほみん〉(宗長),第三〈松むしにさそはれそめし宿出でて〉(宗祇)以下100句で,挙句は肖柏の〈一(ひと)むらさめに月ぞいさよふ〉。…
…ために,時の貴族界の頂点にいた二条良基に認められ,《菟玖波(つくば)集》の編集,《応安新式》の制定に関与し,連歌界の指導者として重要な位置を占めた。さらに,ほぼ同時代の周阿(しゆうあ)や室町時代初期の梵灯(ぼんとう)庵主らを経て,宗砌(そうぜい),宗祇(そうぎ),宗長,兼載(けんさい),宗碩(そうせき)らが,室町中期から後期にかけて連歌の最盛期を形成した。なかでも宗祇は代表的な連歌師で,低い階層から連歌によって身を立て,ついには北野連歌会所奉行(北野天満宮に設けられた連歌活動を統轄する幕府の機関の長)という指導的位置につくに至った。…
※「宗祇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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