世界大百科事典(旧版)内のal-Ma‘adiの言及
【カイロ】より
…歴史的な人口推定は,ファーティマ朝盛期の11世紀に30万以上,12世紀に衰えて15万~20万,マムルーク朝時代の14世紀前半に約60万,オスマン帝国時代初期の16世紀中葉に約43万,ナポレオン軍侵略の19世紀初めに約25万,1882年に約40万,1907年に約68万,27年に約106万,47年に200万を超えた。 現在のカイロは大きく三つの部分からなり,第1に,東のムカッタム丘下から運河あとにあたるポート・サイードPort Said(ブール・サイードBūr Sa‘īd)通りに至る城壁や城跡を残した旧市街,第2に,ポート・サイード通りの西からナイル川に至る,19世紀中葉以降の新市街,第3に,20世紀とくに第2次世界大戦以後に形成された郊外の新興住宅地で,ギーザからエンバーバに至るナイル川西岸,ショブラーからヘリオポリス,さらにその南東に至る市の北部,南部の近郊都市マアディal‐Ma‘adi,ヘルワーンなどの方向に広がっている。また,南東と北東にある広大な墓地(〈死者の町〉とよばれる)に,農村からの流入民や中東戦争の難民が住みついて都市化した部分もある。…
【マアディ文化】より
…前4千年紀末のエジプト先王朝期の文化。下エジプトの先王朝最後の文化で,第1王朝直前にあたる。カイロの南郊約15kmにあるナイル川東岸のマアディal‐Maadiを標準遺跡とする。1930年代にO.メンギンらによって発掘された。貯蔵穴をもつ住居址が発見されているが,墓域は明らかにされていない。スレート製パレット,彩文土器,波状把手付土器など,上エジプトのゲルゼ文化(ナカーダII文化)のものとよく似た内容をもつ遺物も多く発見されている。…
※「al-Ma‘adi」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」