世界大百科事典(旧版)内のCaričinGradの言及
【ユーゴスラビア】より
…ディオクレティアヌス帝が故郷ダルマツィアのサロナSalona近郊に建てた離宮(295-305)は,のちにスプリトの町に発展するが,よく保存され,1764年に建築家R.アダムが紹介してイギリス新古典主義建築の手本となった。
[中世]
初期キリスト教時代,ダルマツィアのキリスト教の中心であったサロナや内陸部のガムジグラードGamzigradやツァリチン・グラードCaričin Gradの都市址にバシリカ式教会堂の基礎が残るが,現存する最も重要な教会堂はイストラ半島のポレチPorečのバシリカで,6世紀のモザイクと内壁装飾が同時代のラベンナの作品に近い質を示す。 7世紀初めスラブ人の侵入により,サロナなども破壊され伝統がとぎれたが,ビザンティン帝国とローマ教会はすぐさま伝道を始め,スラブ人も徐々にキリスト教化していく。…
※「CaričinGrad」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」