世界大百科事典(旧版)内のCavalierd'Arpinoの言及
【バロック美術】より
…
【バロック美術の展開】
[イタリア]
イタリアでは16世紀末に後期マニエリスムが支配的であった。これは反宗教改革の図像統制下に置かれたため,前期マニエリスムの官能的,主観的表現を捨て去った擬古典的な形式を特色とするもので,ローマの大事業を占有していたカバリエル・ダルピーノCavalier d’Arpino(1568‐1640)とフェデリコ・ツッカロを代表とする。一方,北イタリアのボローニャの後期マニエリスト,ルドビコ・カラッチ(カラッチ一族)はベネチア派とエミリア派(コレッジョ)を研究し,その従弟アゴスティノ,アンニバレの兄弟とともに1582年アカデミア・デリ・インカンミナーティを創設して芸術家の指導にあたった。…
【マニエリスム】より
…この時期(1580‐90)をもって〈プロト・バロック〉の台頭,マニエリスムの終末とされる。ただし,1620年代まで,ローマではF.ツッカロ,カバリエーレ・ダルピーノCavalier d’Arpino(1568‐1640)などのアカデミックなマニエリスト,フィレンツェではサンティ・ディ・ティートSanti di Tito(1536‐1603)やチゴーリCigoli(本名カルディLudovico Cardi。1559‐1613)などの,リアリズム的傾向と宗教性の強い〈改革派〉マニエリストが活躍した。…
※「Cavalierd'Arpino」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」