世界大百科事典(旧版)内のChemnitz,M.の言及
【和協信条】より
…それは主としていずれもメランヒトンの弟子たちによって形成された真正ルター派とフィリップ派との間で起こった論争であったが,1560年代後半からしだいにこれらの神学論争の結果をまとめて,ドイツのルター派教会内に信仰的・神学的一致をもたらそうという気運が高まった。そして,アンドレーエJakob Andreae(1528‐90)やケムニッツMartin Chemnitz(1522‐86)らが中心になって起草したものをもとに1577年《ベルゲン書》(のちこれを〈根本宣言〉という)がまとめられ,これを要約した〈梗概〉が第1部に付され,併せて〈和協信条〉と呼ばれることとなった。1530年の〈アウクスブルク信仰告白〉をルターの線で解説しようとした試みとして,ドイツをはじめ多くのルター派教会で信仰的基準の一つとして受けいれられている。…
※「Chemnitz,M.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」