世界大百科事典(旧版)内のClarke,A.の言及
【アイルランド文学】より
…詩人たちはイェーツの影響から抜けだして,それぞれの進路を見いだそうとした。クラークAustin Clarke(1896‐1974)はゲール語の音楽性を英語の表現に生かして,伝説物語詩《コノートの牛追い》(1921)や,信仰の葛藤を告白する《夜と朝》(1938)を発表,しばらく演劇運動に専念した後,晩年の詩集《古代の光》(1955),《アフリカへの飛行》(1963)等によって現代詩人に変身をとげ,緊迫した文体で身辺の事象を論じた。キャバナPatrick Kavanagh(1904‐67)は文芸復興運動の観念性を批判し,詩集《農夫》(1936),長編詩《大飢饉》(1942)で,自己の体験にもとづいて悲惨な農村生活の実体を克明に描いた。…
【パンコール協約】より
…19世紀後半マラヤにはいくつもの小王国が分立し,これにスズ鉱山の中国人労働者の間に組織されたいくつかの秘密結社の間の闘争がからんで内紛が絶えなかった。それまで現地不介入の方針を堅持していたイギリスは,1873年9月に積極的に介入する方針に転換し,クラークAndrew Clarke(1824‐1902)を海峡植民地知事に任命した。クラークは74年1月パンコールPangkor島沖に停泊した砲艦プルトー号に中国人秘密結社の指導者たちとペラ王国の有力者たちを招き,秘密結社の支配区域を定めた。…
※「Clarke,A.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」