世界大百科事典(旧版)内のdeBrazza,P.S.の言及
【アフリカ】より
…しかしイギリスと対抗関係にあるフランス,および英仏の対抗関係を利用しようとするドイツは,なかなかポルトガルの主張を支持せず,むしろ逆にアメリカがコンゴ国際協会の行動を奴隷制度廃絶のためのものと誤認して支持したのにならって,同協会のコンゴ河口北岸に対する主権を承認するにいたった。 同じころ,フランスはイタリア系フランス人ド・ブラザPierre Savorgnan de Brazza(1852‐1905)をコンゴ川北方に派遣してトゥヨ(テケ)の大首長マココをはじめ多くの首長たちと保護条約を結び,のちのフランス領コンゴ,ガボンの礎石を築いた。こうしたフランスの行動は明らかにコンゴ国際協会の活動に刺激された結果起こされたものであった。…
【ガボン】より
…19世紀に入って奴隷貿易が禁止されたのち,フランスの勢力拡大が目だつようになり,フランスは現地の首長と次々に条約を結んで沿岸地域をその手におさめた。さらに19世紀半ばごろから徐々に内陸部へ進出していったが,1870~80年代にド・ブラザPierre Savorgnan de Brazza(1852‐1905)がオゴウェ川上流を探検し,トヨ(バテケ)の大首長マココをはじめ多くの首長たちと保護条約を結んだことにより,今日のガボンのほぼ全域がフランスの支配下に組みこまれることになった。84‐85年に欧米14ヵ国が参加して開かれたベルリン会議は,ガボンのみならずコンゴ川西岸に至るまでの地域に対するフランスの支配権を認め,90年にガボンは正式にフランス領コンゴの一部となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」