世界大百科事典(旧版)内の《DerjungeHegel》の言及
【ルカーチ】より
…33年のナチス政権獲得後はモスクワに亡命,科学アカデミー哲学研究所に属して文学史,美学等の研究に従事,市民的リアリズム,前衛芸術の位置づけに関しゼーガース,ブロッホ,ブレヒトらといわゆる〈表現主義論争〉をおこす。戦後ハンガリーに帰ってブダペスト大学教授となり,実存主義との論争や,ヘーゲル哲学の形成への経済学の影響を指摘した《若きヘーゲルDer junge Hegel》(1948),ナチスを準備した近代の西欧哲学の非合理主義を批判した《理性の崩壊Die Zerstörung der Vernunft》(1954)等により,東側の代表的思想家の地位を確立する。しかしたび重なる自己批判にかかわらず,ハンガリー事件等のたびに党側からは非難を受け,晩年は美学,存在論等の著述に没頭した。…
※「《DerjungeHegel》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」