世界大百科事典(旧版)内のEberhardIの言及
【ビュルテンベルク】より
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[歴史]
中世盛期シュタウフェン朝の時代まで,ビュルテンベルクの地はシュワーベン公領に属していたが,その間シュトゥットガルトの近くから出てネッカー川およびレムス川流域の支配者となった貴族の家柄が1135年ビュルテンベルク伯を名乗り,シュタウフェン朝断絶後の大空位時代(1254‐73)に皇帝の所領をも奪って全シュワーベンに支配圏を広げた。ビュルテンベルク伯領は15世紀に一時シュトゥットガルトとウーラハをそれぞれの首都とする2伯領に分割されるが,チュービンゲン大学の創設者エーバーハルト1世Eberhard I(在位1450‐96)が1482年に統一を回復,95年には皇帝によりビュルテンベルク公の称号を認められた。しかし国の統一回復のためには領邦議会の協力を要したため,エーバーハルト1世の死後議会の力が強まり,議会は1514年のチュービンゲン協約により強力な政治的発言権を獲得,以後19世紀に至るまで,議会の力の強いことがビュルテンベルクの際だった特徴となる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」