世界大百科事典(旧版)内のEudeの言及
【カペー朝】より
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[成立と権力基盤]
カペー家les Capétiensはその登極以前に,ライン地方から移ってきた北フランスの豪族ロベール・ル・フォールRobert le Fort(?‐866)を始祖とするロベール家の前史をもつ。2代目のパリ伯ウードEude(s)はノルマン人と戦ってパリを防衛し,西フランクの王位につく。ウードの治世(888‐898)はカロリング王権の衰退と領邦(プランシポーテprincipauté)の成立という二重の意味で,新時代の開幕を告げるものであった。…
【カロリング朝】より
… フランク王国そのものは,カール3世(皇帝在位881‐887)のとき一時統合されるが,この皇帝はノルマン人対策に失敗した。その間に西フランクでは,ノルマン人のパリ包囲(885‐886)で功績をあげたロベール家(後のカペー家)のウードEudes(在位887‐897)や,ブルゴーニュのラウールRaoul(在位923‐936)が王に選ばれ,この王朝による王位の独占の原則は,早くもやぶれ,ユーグ・カペーの登極によってカロリング朝は終わった(987)。東フランクでは911年のザクセン朝の登場によってこの家系の王・皇帝は絶える。…
【ロベール家】より
…866年ブリサルトで戦死し,2人の息子ウードとロベール1世を残す。885‐886年ノルマン人の攻撃からパリを防衛して名を挙げたウードEudes伯は,887年のカール3世の廃位後,有力諸侯に推されて国王になり,ここにカロリング体制は事実上終了する。898年ウードの死後,王権は再びカロリング家に戻るが,922年シャルル3世単純王に対する反乱を指導した辺境伯ロベール1世が国王に選出されるが,わずか1年の治世で死去し,彼の婿ブルゴーニュ公ラウールRaoul(在位923‐936)が王位を継ぐ。…
※「Eude」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」