世界大百科事典(旧版)内のGamble,W.の言及
【印刷】より
…日本活版術の始祖とされている本木昌造は,1869年(明治2)長崎に〈新街私塾〉という学塾を開き,その維持費を得るために活版印刷の工業化を考えた。彼は,上海美華書館から多量の活字,活字鋳造機,印刷機などを買いつけ,上海美華書館の館長ガンブルWilliam Gambleを迎えて活版伝習所を設立した。その指導のもと活字鋳造に成功した本木は,70年〈新街活版所〉を創設,同年門下の小幡正蔵,酒井三造らは大阪に〈長崎新塾大阪活版所〉を開いた。…
【本木昌造】より
…60年(万延1)長崎製鉄所(のちの長崎造船所)御用掛となり,維新後70年(明治3)に頭取としての職を辞すまで技術活動にたずさわった。この間,蒸気船を操縦して長崎~江戸間を往復し,造船・航海術に寄与したほか,日本最初の鉄製橋(長崎西ノ浜)を架設するなど,多彩な業績をのこしたが,69年には製鉄所構内に活版伝習所を設置,上海からアメリカ人技師ガンブルWilliam Gambleを迎え,ついに金属活字の鋳造に成功した。70年長崎新町に活版所を開き,活字製造と印刷業を始めるとともに,門下の平野富二(1846‐92),陽其二(ようそのじ)(1838‐1906)らの協力を得て近代印刷技術発展の基礎を築き,またそのとぼしい利潤を新街私塾という一種の市民学校の運営にあて,印刷出版界その他で重きをなす次代の人材を育成した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」