世界大百科事典(旧版)内のGranovitayaPalataの言及
【モスクワ】より
…それでも1382年にはキプチャク・ハーン国のトフタミシ・ハーンによって町が占領され,焼き払われた。 15世紀にはモスクワを中心とする全ロシアの統一がすすみ,イワン3世は1480年にキプチャク・ハーン国からの完全な独立を果たすとともに,イタリアからフィオラバンティ,ソラリなどの技術者を招いて,今に伝わるクレムリンの塔と城壁,城内の多稜宮(グラノビータヤ宮殿)Granovitaya palataや石造のウスペンスキー聖堂などを造営した。当時,大公の一族と大貴族,府主教などはクレムリン内に住み,商人や職人たちはほぼ職種ごとにクレムリンの周囲に集落を形成し,15世紀末には人口は15万をかぞえた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」