世界大百科事典(旧版)内のKruszewski,M.の言及
【構造言語学】より
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[構造言語学の先駆者たち]
19世紀末から20世紀初頭にかけての言語研究は青年文法学派によるインド・ヨーロッパ語の史的比較研究(比較言語学)が主流をなし,生きた言語の記述や言語一般の性質の研究はあまり振るわず,しかも伝統的なギリシア・ラテン文法の概念や枠組みへの無批判な依存や,言語と意識・心理・思考を同一視ないし混同する俗流的解釈にとどまっていた。しかし,アメリカのサンスクリット学者W.D.ホイットニーや帝政ロシアの比較言語学者であるポーランド人のボードゥアン・ド・クルトネとカザン大学でのその弟子クルシェフスキMikołaj Kruszewski(1851‐87)らはすでに19世紀の70年代から80年代にかけてその著作や講義の中で社会的な伝達の手段としての言語の記号的性質を正しく把握し,その中心に弁別的機能をもつ音素的な単位を想定する考えを示した。彼らはいずれも諸言語に共通する,ことばの社会的機能や記号的性質を研究する普遍主義的・構造主義的な言語研究の新しい分野の可能性を説いたが,同時代の大多数の学者から無視される結果となった。…
【スラブ学】より
…87年よりウィーン大学の講座を担当したクロアチア人のヤギチVatroslav Jagić(1838‐1923)は,ドイツやロシアでも教壇に立ち,各国の研究者の連係をはかった。ロシアでは言語学者ないし文献学者のブスラーエフFyodor Ivanovich Buslaev(1818‐97),ポテブニャAleksandr Afanas’evich Potebnya(1835‐91),年代記の研究で知られるシャフマトフAleksei Aleksandrovich Shakhmatov(1864‐1920),文学研究のベセロフスキーAleksandr Nikolaevich Veselovskii(1838‐1906),総合的な《スラブ文学史》のプイピンAleksandr Nikolaevich Pypin(1833‐1904)などが輩出し,またポーランド出身の言語学者ボードゥアン・ド・クルトネ,クルシェフスキMikołaj Kruszewski(1851‐87)もおもにロシアで活動した。ポーランドでは《ポーランド語語源辞典》のブリュクネルAleksander Brückner(1856‐1939),民俗学のコルベルクOskar Kolberg(1814‐90),チェコではスラブ古代史のニーデルレLubor Niederle(1865‐1944)などが知られる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」