世界大百科事典(旧版)内のLudwikWęgierskiの言及
【ピアスト王朝】より
…〈王朝〉の名称は不適切かもしれないが,慣例に従うことにする(図参照)。カジミエシュ3世(大王)の死でポーランド王国の支配者はアンジュー家出身のハンガリー国王ラヨシュ1世Lajos I(ポーランド名はルドビク・ハンガリー王Ludwik Węgierski。カジミエシュ大王の姉エリジュビエタの子)を介してヤギエウォ朝に変わるが,ピアスト侯家は周辺部の侯国の支配者として存続した(最終的な断絶は1675年)。…
【ポーランド】より
…官吏養成用に,ボローニャ大学に範を求めたクラクフ・アカデミー(のちヤギエウォ大学とよばれる)がつくられたのもこのころである。
[ヤギエウォ朝時代]
(1)東欧の大国の成立 嫡子に恵まれなかったカジミエシュ大王の後を1370年,アンジュー家出身のハンガリー王ラヨシュ1世Lajos I(1326‐82,在位1342‐82)が継ぎ,ルドビクLudwik Węgierskiと称した。ところがルドビクも男子に恵まれず,彼は娘のいずれかにポーランド王位を確保すべく,コシツェでシュラフタに最初の特権を約束した(1374)。…
※「LudwikWęgierski」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」