改訂新版 世界大百科事典 「ピアスト王朝」の意味・わかりやすい解説
ピアスト王朝 (ピアストおうちょう)
Piastów
グニェズノを本拠地としてポーランド統一を成し遂げたポラニエ族出身の侯家。王位に就いた者はその一部にすぎず,また王位に就いても短期間にすぎなかった例がほとんどである。〈王朝〉の名称は不適切かもしれないが,慣例に従うことにする(図参照)。カジミエシュ3世(大王)の死でポーランド王国の支配者はアンジュー家出身のハンガリー国王ラヨシュ1世Lajos Ⅰ(ポーランド名はルドビク・ハンガリー王Ludwik Węgierski。カジミエシュ大王の姉エリジュビエタの子)を介してヤギエウォ朝に変わるが,ピアスト侯家は周辺部の侯国の支配者として存続した(最終的な断絶は1675年)。18世紀末以来,ミエシュコ1世Mieszko I以前の支配者は伝説にすぎないとされていた。ミエシュコ1世と違ってドイツやチェコの文献に記述がなく,ガル・アノニムの《ポーランド年代記》に登場してくるだけであったからである。そうなるとポーランド統一はミエシュコ1世だけの事業ということになり,これを説明するためにピアスト王朝を征服者とする考え方が登場してきた。しかし第2次世界大戦後の考古学的な発掘の進展で,ガル・アノニムの記述が裏づけられるようになり,シェモビトまでの実在が信じられるようになった。〈ピアスト〉の名は《年代記》にシェモビトの父親であった農夫の名前として出てくるが,この部分の記述についてはライン地方の説話が後から付け加えられたものと考えられている。
〈ピアスト〉が王朝名として初めて使用されたのは16世紀末,シロンスクにおいてであり,ナルシェビチAdam Naruszewicz(1733-96)が最初の学問的なポーランド史とされている《ポーランド民族史》(1780-1824)で使用して以後,急速に普及していった。彼はピアスト王朝の時代を,強い王権によって国家統一が維持されていた理想的な時代としたが,これは19世紀を通じてポーランドの歴史家が抱き続けてきた基本的な〈ピアスト王朝観〉である。しかし20世紀になると〈強い王権〉の存在に疑問が提出されるようになり,むしろピアスト諸侯(とくにミエシュコ1世とボレスワフ勇敢王)とドイツ皇帝の抗争が注目されるようになった。その代表的なものが国民民主党の強調した〈ピアストの伝統〉である。これによって国民民主党は自らの反ドイツ政策を正当化し,また第1次世界大戦後のベルサイユ講和会議で旧ドイツ領の割譲を要求する根拠とした。第2次世界大戦後ポーランドの領土は大きく西に移動し,したがって〈ピアストの伝統〉はいっそう大きな意味をもつようになっている。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報