世界大百科事典(旧版)内のMaximaSequanorumの言及
【ゲルマニア】より
…しかし,3世紀後半,アラマン人によるアグリ・デクマテスの占領とフランク人のガリアへの大規模な侵入は,ガロ・ロマン文化の突然の終焉(しゆうえん)をもたらし,属州経済も衰え,再び立ち直ることはなかった。ガリア 3世紀末,皇帝ディオクレティアヌスの帝国再編制では,上ゲルマニアは,その南部が〈マクシマ・セクアノルムMaxima Sequanorum〉(行政府はブザンソン)として分離して〈ゲルマニア・プリマGermania Prima〉(同マインツ)となり,下ゲルマニアは,〈ゲルマニア・セクンダGermania Secunda〉(同ケルン)と改称された。続くコンスタンティヌスおよびウァレンティニアヌス両朝の諸帝は,ライン防衛線の再建に成功して,最後の〈ローマの平和〉の時代を築いたが,ライン軍団維持の経済的負担を属州民に負わせ,重税による中産階級の崩壊を招いて,彼らを富裕・貧困両極の階級に分裂させた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」