世界大百科事典(旧版)内のMitford,A.B.F.の言及
【日本研究】より
…しかし,日本語を習得し,日本の識者や古典に接しながら,文化や歴史を正確に知ろうとする努力が始まるのは,1865年(慶応1)にH.S.パークスが第2代公使として着任してからである。〈パークスの学校〉とのちに評されたように,E.M.サトーやW.G.アストンをはじめ,ミットフォードAlgernon Bertram Freeman‐Mitford(1837‐1916),アダムズFrancis Ottiwell Adams(1825‐89),ガビンズJohn Harrington Gubbins(1852‐1929),ロングフォードJoseph Henry Longford(1849‐1925)など,多くの部下が,それぞれの分野で日本通に仕立てられる。また,この〈学校〉の周辺には,軍属のディキンズFrederick Victor Dickins(1838‐1915)やブリンクリーFrancis Brinkley(1841‐1912),言語学者B.H.チェンバレンらもいた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」