世界大百科事典(旧版)内のmouvementd'Amsterdam-Pleyelの言及
【人民戦線】より
…この危機の中で2月12日,社会党と共産党はそれぞれ隊列は別であったが,合わせて10万人近くのデモンストレーションを組織し,また1921年以来分裂していた労働総同盟(CGT(セージエーテー))と統一労働総同盟(CGTU)がゼネストを行って右翼諸勢力の攻勢に対抗した。ファシズムの台頭に対し共同行動を組織する試みは32年以来ロマン・ロランやアンリ・バルビュスら知識人による平和擁護を訴える運動(アムステルダム・プレイエル運動mouvement d’Amsterdam‐Pleyel)があり,また33年急進社会党左派のG.ベルジュリを中心にする〈反ファシズム共同戦線〉の試みなどがあった。しかし2月12日の行動の実現は大きな転換をもたらすことになった。…
※「mouvementd'Amsterdam-Pleyel」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」