世界大百科事典(旧版)内のMuḥammadb.Sa‘ūdの言及
【アラビア半島】より
…ワッハーブの教えはベドウィン戦士の士気を奮い立たせ,昔ながらのベドウィン同士の戦いはジハードとして意義づけられた。1765年にムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.Sa‘ūdの没したとき,半島の中・東部の大部分はサウード家の支配に帰しており,それはサウード王国,またはワッハーブ王国とよばれる。19世紀の初めワッハーブ王国はイラクのシーア派の聖地カルバラーを襲い,メッカとメディナを占領した。…
【ワッハーブ派】より
…タウヒード(神の唯一性)とカダル(神の予定)とを強調し,シルク(多神教)につながる可能性ありと認めるいっさいのものを否定しようとした。故郷で迫害された彼は,ナジュドのダルイーヤに拠るムハンマド・ブン・サウードMuḥammad b.Sa‘ūd(?‐1765)の勢力拡大運動と結ぶこととなり,その結果,この運動はサウード家の政治的消長と軌を一にしつつ,アラビア半島に展開した。サウード家の支配はワッハーブ王国と呼ばれることもある。…
※「Muḥammadb.Sa‘ūd」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」