世界大百科事典(旧版)内のMu‘izzīの言及
【宮廷文学】より
…この制度はガズナ朝,セルジューク朝にも受け継がれ,ガズナ朝スルタン,マフムードの宮廷には400人もの宮廷詩人が仕えたといわれ,ウンスリー‘Unṣurī(?‐1039)は最初の桂冠詩人の称号をうけた。セルジューク朝(1038‐1194)宮廷にはムイッジーMu‘izzī(1048ころ‐1125ころ),アンワリーのような優れた頌詩詩人が仕えた。地方の小王朝も競って宮廷詩人を召し抱え,詩人ニザーミーのように宮廷には仕えず,その依頼で作詩する詩人も現れた。…
【ペルシア文学】より
… 11世紀初頭から13世紀にかけてトルコ系ガズナ朝,セルジューク朝の支配が続いたとはいえ,これらの王朝も文化的には完全にイラン化してサーマーン朝以来の伝統的文化政策を踏襲したため,異民族王朝支配下においてもペルシア詩は隆盛の一途をたどり,11世紀前半ガズナ朝スルタン,マフムードの宮廷には400人ものペルシア宮廷詩人が仕えていたといわれ,桂冠詩人の制度が設けられ,ウンスリー‘Unṣurī,ファッルヒーFarrukhī,マヌーチフリーManūchihrīらの頌詩詩人が活躍し,ペルシア古典詩の主流になった〈ホラーサーン・スタイル〉を確立し,アラビア語彙を多く採り入れて表現をさらに豊かにした。11世紀後半から12世紀前半にかけてのセルジューク朝支配時代にはペルシア詩は質量ともに最高潮に達し,宮廷詩人としてはムイッジーMu‘izzīをはじめ,頌詩の最高詩人アンワリーが現れた。異端イスマーイール派を信奉した神学・哲学詩人ナーシル・ホスローや,ペルシア詩の代表詩人として世界的に有名な《ルバーイヤート(四行詩集)》詩人ウマル・ハイヤームが活躍したのもこの時代である。…
※「Mu‘izzī」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」