世界大百科事典(旧版)内のMundt,T.の言及
【楽劇】より
…これらに相当する作品は《ローエングリン》(1848)の後の諸作品,《トリスタンとイゾルデ》《ニュルンベルクのマイスタージンガー》《ニーベルングの指環》《パルジファル》である。 楽劇という用語は既に1833年にムントTheodor Mundt(1808‐61)が提唱しているが,ワーグナー自身は自作にこの名称を付さず,72年の論文で自作が楽劇と呼ばれていることに異議を唱え,むしろ無名の芸術的所作であることを強調している。 ワーグナーと並ぶオペラ作曲家ベルディも,異なる様式で劇と音楽との高度な統一を実現させているが,楽劇の名称は一般に,ワーグナーのほか,フィッツナー,特にR.シュトラウスの作品《サロメ》《ばらの騎士》などに用いられる。…
【青年ドイツ派】より
… 青年ドイツ派の名は,《美学征伐》(1834)の巻頭におけるウィーンバルクの〈老いたドイツではなく,若い(青年)ドイツにささぐ〉という献辞に由来するものと思われる。この派に属する作家たちは,サン・シモン主義やヘーゲル哲学からの影響関係に応じて,ウィーンバルク,グツコーらのライン右岸グループと,ラウベ,ムントTheodor Mundt(1808‐61),キューネGustav Kühne(1806‐88)らのベルリン・グループに分けられる。彼らが一致して目指した〈文学革命〉とは,政治革命を前提とせず,文学を通じて状況の変化をもたらそうとする知的エリートの運動にほかならず,たとえばG.ビュヒナーはヘッセンにおける革命的実践をふまえつつ,はやくも1836年に〈社会を理念によって,知識階級の手で変えるなんて不可能だ〉(グツコーあての手紙)と,手きびしい批判を加えるのである。…
※「Mundt,T.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」