世界大百科事典(旧版)内のMuthesius,H.の言及
【デザイン】より
…またウィーンのゼツェッシオン(分離派),とくに建築家J.ホフマンらを中心に1903年設立されたウィーン工房は,機能性と直線の合理性を強調し,建築と工芸各分野で近代の新しい造型を目ざしたが,いまだ装飾芸術の範囲にとどまっていた。装飾性を切り捨て,生産主義,機能主義に立つ近代デザインの思想が現れてくるのは,イギリスの住宅の調査から機能主義をひきだした建築家ムテジウスHermann Muthesius(1861‐1927)によるドイツ工作連盟Deutscher Werkbundの設立(1907。ミュンヘン),そのころからはじまるP.ベーレンスのAEG電機会社での建築,工業製品,広告などにわたる一貫した活動,さらにアメリカの生き生きした産業社会に触れてヨーロッパの文化的遅滞を痛感したA.ロースの激しい言説(〈装飾は罪である〉。…
【ベーレンス】より
…このころ,事務所にグロピウス,ミース・ファン・デル・ローエがおり,ル・コルビュジエも訪ね来たり彼の影響を受ける。またムテジウスHermann Muthesius(1861‐1927)とともにドイツ工作連盟Deutscher Werkbund(1907ミュンヘンで設立)の指導者として建築,工芸の振興に尽くす。大戦後はベルリンとウィーンのアカデミーで教壇に立つかたわら,IG染料会社事務所(1924)のような表現主義的作品から,ベルリンのアレクサンダー広場の事務所ビル(1931)のような国際様式建築へと作風を変えていった。…
※「Muthesius,H.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」