世界大百科事典(旧版)内のRepton,H.の言及
【庭園】より
…このような傾向に対して,ただ水と芝,樹木と起伏のみによる構成を主張したのが〈ケーパビリティ〉の渾名をもつブラウンであった。レプトンHumphry Repton(1752‐1818)はこのブラウンの考えを受け継いで風景式庭園最後の巨匠となった人で,〈Landscape Gardening〉という概念を提唱し,イギリスにおける,庭園の枠を超えるランドスケープ・デザインの伝統の礎を固めている。この風景式庭園の思想の影響をもっとも強くこうむったのはフランスであり,J.J.ルソーが晩年に隠棲したジラルダン卿のエルムノンビルの館の庭や,マリー・アントアネットがベルサイユに営んだプティ・トリアノンのアモーなど,さまざまな例が残されている。…
【ナッシュ】より
…その後ウェールズに退き活動中,R.P.ナイトらの,不規則性や意外さを美的価値とするピクチュアレスク理論に触発されて新しい設計手法を開拓。風景式庭園を完成させたL.ブラウンの後継者レプトンHumphry Repton(1752‐1818)と協同で,ラスクーム(デボンシャー,1804)などの別荘建築を設計し好評を博す。ロンドンのリージェンツ・パーク(1828)よりリージェント・ストリート(1833)を経てカールトン・ハウス・テラス(1814)を結ぶ計画では,各建物は古典主義的ではあるが,街路構成や配置に都市で初めてピクチュアレスクの設計理念を実現した。…
【ピクチュアレスク】より
…ついで造園家プライスUvedale Price(1747‐1829)は,E.バークが1757年に提示した〈崇高the sublime〉と〈美the beautiful〉の二つの美的範疇には含まれない,複雑さ,多様さ,不規則性,荒削りさ,好奇心の喚起などの性質を含むピクチュアレスクの観念を定義した(《ピクチュアレスク試論》1794‐98)。プライスの影響下にJ.ナッシュが建築において,またレプトンHumphrey Repton(1752‐1818)が風景式庭園においてピクチュアレスクを定義すべく試みた。さらに芸術愛好家ナイトRichard Payne Knight(1750‐1824)は,《風景画》(1794)や《趣味の原理の分析的研究》(1805)で,ピクチュアレスクについて論じている。…
【ブラウン】より
…敷地のもつ〈可能性〉を十分生かした土地改造方法を唱えたことから,〈ケーパビリティ・ブラウンCapability Brown〉とあだ名される。自然美を造園の基準にすべきだという彼の考え方は,レプトンHumphry Repton(1752‐1818)へと引き継がれた。【星 和彦】。…
※「Repton,H.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」