世界大百科事典(旧版)内のRosny,L.deの言及
【日本研究】より
…シーボルトの助手を務めたJ.J.ホフマンは1835年ライデン大学教授となり,40年に《千字文》,42年に浅野高蔵の《和漢年契》のオランダ語訳,48年には上垣守国の《養蚕秘録》のフランス語訳をパリとトリノで出版,67年には《日本文法》を出し日本学に多大の寄与をしたが,1848年に柳亭種彦の《浮世形六枚屛風》を訳し,72年《万葉研究》を刊行,78年オーストリア学士会員となったフィッツマイヤーAugust Pfizmaier(1808‐87)と同じく,来日はしていない。中国学Sinologyが早く確立したフランスでも,中国学者S.ジュリアンの弟子ロニーLéon de Rosny(1837‐1914)は日本研究に移り,1863年からパリ東洋語学校で日本語を教え始め,68年から正規となったこの講座の教授を1907年まで務めたが,来日はしなかった。19世紀の文献学の隆盛期に日本学は〈盆栽的学問orchid science〉への傾向を強めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」