世界大百科事典(旧版)内のTeatrimeniPushkinaの言及
【ロシア・ソビエト演劇】より
…正称はTeatr rabochei molodyozhi)などに非常に多くの青年男女が参加した。 1920年代も半ばになると,旧帝室劇場であったレニングラードのプーシキン劇場Teatr imeni Pushkinaやモスクワのマールイ劇場Malyi teatrなども力を盛り返し,モスクワ芸術座も22‐24年にわたる外国公演旅行から帰り,演劇界全体がにぎわいを見せ始めた。その一因は激動の時代を図式的にではなく,人間を通して描く戯曲が書かれ始めたことで,例えばマールイ劇場のトレニョフ作《リュボーフィ・ヤロバーヤ》(1926),芸術座のブルガーコフ作《トゥルビーン家の日々》(1926),労働組合モスクワ市ソビエト劇場のビリ・ベロツェルコーフスキー作《暴風雨》(1925),メイエルホリド劇場のエルドマン作《委任状》(1925)などがその好例である。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」