世界大百科事典(旧版)内のVáclavIIの言及
【チェコ】より
…オタカルは1278年にルドルフと中欧の覇権を争うマルヒフェルトの戦で敗死し,南方の領土を失った。その後オタカル2世の子バーツラフ2世Václav II(在位1278‐1305)が遺産相続によってハンガリー王,ポーランド王を兼ねたために,チェコは帝国内の一大勢力になった。だが次のバーツラフ3世Václav III(在位1305‐06)が暗殺されると断絶し,以後,外来の君主がボヘミアを統治することになる。…
【ポーランド】より
…ヘンリク4世有徳侯Henryk IV Probus(1257ころ‐90。王位を目ざすが実現直前に死亡),プシェミスウ2世Przemysł II(1257‐96),チェコ国王バーツラフ2世Václav II(1271‐1305),ブワジスワフ短身王Władysław Łokietek(1260ころ‐1333)が,それぞれポーランド王位を手がかりに統一の実現を目ざすが,最終的にこれに成功したのが短身王である(1306)。そして,その子カジミエシュ世(大王。…
※「VáclavII」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」