世界大百科事典(旧版)内のVladimirAndreevichStaritskiiの言及
【イワン[4世]】より
…この時期,対外的にはカザン・ハーン国とアストラハン・ハーン国の併合に続いて南方のクリム・ハーン国にも遠征軍が送られたが,イワンは北方への進出を優先させて1558年リボニア戦争を始め,アダシェフなどと対立した。彼は1553年重病で危うかった時,多くの重臣が彼の意に反して従弟のウラジーミル公Vladimir Andreevich Staritskii(1533‐69)を後継者に推して以来,彼らに対して不信の念をもっており,60年アダシェフらを追放して国政を専断し始めた。イワンはリボニア戦争を継続する一方でオプリチニナ体制をしき,ウラジーミル公はじめ多数の有力貴族を倒し,また敵国との通謀の疑いでノブゴロドを破壊した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」