建久7年の政変(読み)けんきゅうしちねんのせいへん

世界大百科事典(旧版)内の建久7年の政変の言及

【大姫】より

…大姫の嘆きは深く,以後鬱病(うつびよう)に苦しんだが,建久初年以来頼朝夫妻はこの娘の入内工作に着手し,95年(建久6)には同道上洛。しかし源通親,丹後局に乗ぜられ失敗,九条兼実ら親幕派公卿の失脚を招いた(建久7年の政変)。97年7月14日没。…

【高階栄子】より

…〈文治守護・地頭〉問題や源義経の処分等について鎌倉幕府と折衝し,91年(建久2)覲子に宣陽門院の号が下ると,翌年3月従二位に昇った。他方,源頼朝の娘大姫の入内工作に関与,頼朝夫妻の上洛を歓待するなどしつつ,その立場を利用し,96年源通親(みなもとのみちちか)らと謀って政敵九条兼実の勢力を一掃した(建久7年の政変)。六条坊門東洞院に邸を構えたが,晩年は東山の浄土寺に居住したので〈浄土寺の二位〉と称された。…

【源通親】より

…法皇の死後も,法皇の寵姫だった丹後局高階栄子と結託して勢力の温存に努め,95年(建久6)範子の連れ子在子(承明門院)が後鳥羽天皇の第1皇子為仁を出産すると,通親はこの皇子を養育することになった。翌年,長年の政敵九条兼実一派を廟堂から追放(建久7年の政変),98年には為仁の践祚を実現(土御門天皇),後鳥羽院庁の別当にも任じて政治の実権を握った。その権勢は世に〈源博陸(みなもとのはくりく)〉(関白の意味)と称されたほどで,99年(正治1)にも頼朝の死による動揺期をとらえ,京都政界における残余の親幕派勢力を一掃したが,晩年は後鳥羽上皇の政治的成長によって,その掣肘(せいちゆう)を受けることも多かった。…

※「建久7年の政変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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