小西村(読み)こにしむら

日本歴史地名大系 「小西村」の解説

小西村
こにしむら

[現在地名]大網白里町小西・季美の森南きみのもりみなみ、東金市季美の森東きみのもりひがし

大網村の北に位置する。当地しろ山に原氏の居城だったといわれる小西城跡がある。四ヵ所の郭が想定され、土塁・空堀が残る。山下にほりうちの地名がある。「本土寺過去帳」には文安四年(一四四七)没の道安に原大和守小西殿(胤義か)舎弟と注記される。同過去帳にみえる文明一三年(一四八一)没の行朝は当地の日蓮宗正法しようぼう寺を建立した原胤継(胤義の子)をさすと思われ、一五世紀中頃には当地に原氏が居住していたことがうかがえる。正法寺はもと真言宗で長禄二年(一四五八)に胤継を外護者として平賀ひらが(現松戸市)本土ほんど寺日意の唱導によって日蓮宗となったと伝える(長国寺文書)

小西村
こにしむら

[現在地名]綾部市小西町

さい川右岸の丘陵地にあり、東南はくり村、西はふくろ峠を越えると報恩寺ほおじ(現福知山市)。「丹波負笈録」は字に小西・黒田西くろだにしを記すが、現在は口小西くちこにし・黒田・奥小西おくこにしに分れてよばれることが多い。俗に小西・鍛冶屋かじやなか新庄しんしよの四ヵ村を小畑おばた四箇(小畑組)という。綾部藩領。

巡察記」は村の様子を次のように記す。

<資料は省略されています>

村域内に大迫おおざこ古墳群(四基)前田まえだ古墳群(七基)などがある。

村域内中山なかやま三之宮さんのみや神社が鎮座。元禄一三年(一七〇〇)の記録(「何鹿郡町村誌」所収)は当社について、「此の神社は昔小畑の庄に熊野表三山を奉遷せし三社中の其の一座と申伝候」とある。

小西村
こにしむら

[現在地名]美里町小西

毛原けばら庄の中央部、貴志きし川の両岸にまたがる。「紀伊名所図会」には西村とある。西はしも村と猿川さるかわ庄のなか村である。貴志川に落ちる滝本たきもと谷と三口谷の川との二ヵ所に滝がある。高野街道が貴志川北岸を通る。近世高野山領とされ、「続風土記」は村高一六七石余、家数四七、人数二一一、小祠三(小原社・牛頭天王社ほか)を記す。

「続風土記」によれば天神山東福とうふく寺があったほか廃寺が二つあり、朝日あさひ寺跡は貴志川北岸で、当時は観音堂が残り、若狭の八百比丘尼の建立という古仏と、銘に「紀伊国那賀郡毛原庄朝日寺鐘、弘安八年乙酉二月廿三日、東大寺鋳物師大工山川助永」とある古鐘を蔵していたという。

小西村
こにしむら

[現在地名]峰山町字小西

竹野川の支流小西川の源に近い切畑権現きりはたごんげん山の麓に開かれた村。峯山藩領。

地名はやす村の稲代吉原いなしろよしわら神社に蔵される天正四年(一五七六)七月二八日の年紀をもつ棟札に「小西西山村」とみえるのが早い。江戸初期には慶長検地郷村帳にでる吉原よしわら庄の地に含まれていた。延宝八年(一六八〇)改の峯山領御知行郷村高帳には吉原庄(高一四九五・九七石)のうち「小西分」として四五三・五七五石がみえる。これは枝郷西山にしやま分を含んでおり、元禄年間(一六八八―一七〇四)の御領地高辻帳で「小西村」小西分二五四・三四五石、西山分一九九・二三石と別記される。

小西村
こにしむら

[現在地名]近江八幡市加茂町かもちよう

西中小路にしなかこうじ村の北に位置し、西は水茎みずくきの入江に面する。加茂九ヵ村の一。永正九年(一五一二)一一月一八日の作職売渡状(伊藤文書)に「加茂小西」とみえる。寛永石高帳では高三七〇石余、正保郷帳でも同高で山城淀藩領。慶安二年書上によると田三一六石余・畑屋敷三五石余・永荒砂入一九石余。元禄郷帳では高三九五石余、旗本大給松平領、以後同領で幕末に至る。天保郷帳では高五一〇石余と増加。これは水茎の入江の干拓新田化によるもので、正保郷帳で村高のほかとしてみえる高四石もこの新田分と思われる。

小西村
こにしむら

[現在地名]富山市小西

常願寺川と神通川に挟まれた平坦地のやや東寄り、三上みかみ村の西に位置する。正保郷帳では高五四七石余、田方三六町三反余・畑方二反、新田高三〇石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四三〇石、免四ツ八歩(三箇国高物成帳)。以後幕末まで草高・免に変化はない(天保一一年「高免帳」杉木家文書)。所属組は町袋まちぶくろ村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報