小野庄(読み)おののしよう

日本歴史地名大系 「小野庄」の解説

小野庄
おののしよう

かつら川の右岸、現御玉おだまの内。裸祭で有名な若宮八幡宮が鎮座する。宇佐宮来縄くなわ郷内に設定された三六町の御供田庄。一二名で構成される。年未詳九月の宇佐宮正供田条々事書案(到津文書)に聖武天皇の神亀―天平年中(七二四―七四九)に寄進されたとあるが、これは宇佐宮に寄進された封戸のことをさすものであろう。成立は同じ御供田庄岩崎いわさき(現宇佐市)に関する長元元年(一〇二八)二月一三日の大中臣守安等塩田譲状案(永弘文書)から長元頃とする説、鎌倉末期ないし建武(一三三四―三八)初年とする説がある。建武四年九月日の小野庄吉成名駈士安弘申状案(到津文書)によると、小野庄一二名中の吉成よしなり名に対する甲乙人の買得知行を止め、本名に返付するよう訴えている。大宮司某は先例に従って本名に返付すべしと外題安堵を与え、政所惣検校宇佐宿禰も同様に裏書している。当庄は天正一〇年(一五八二)正月五日の宮成公基大宮司職等譲状(益永文書)に「正御供田豊後国来縄御玉小野庄拾弐名司事」とあるように、庄の範囲を明示する地域名が冠せられており、御玉庄ともよばれた(天文五年一一月八日「永弘通忠覚書」永弘文書)

長禄二年(一四五八)五月二二日の宇佐宮年中御供米御菜免注文(到津文書)にみえる一二名は、明応一〇年(一五〇一)三月四日の小野庄吉成名等十二名連署請文(永弘文書)によると吉成・久次ひさつぐ行成ゆきなり成安なりやす清末きよすえ・かうまん(香万)正行まさゆき為成ためなり・ひろもと(弘元)光成みつなり二郎丸じろうまる・ちかとき(近時)となっている。

小野庄
おののしよう

現小野町を遺称地とする庄園。「明月記」寛喜二年(一二三〇)一一月五日条に「小野庄」とみえ、本主が死去したため、宣旨によって内裏二品(西園寺公経の女藤原成子)の知行とされたが、基忠入道が山門に寄進したと称して成子の使者を追出している。建武三年(一三三六)には大原浄蓮華おおはらじようれんげ(現京都市左京区)領であった(同年九月五日「光厳上皇院宣案」下郷共済会文書)。応永二二年(一四一五)八月二四日、足利義持は冷泉為尹に和歌千首の詠進を命じ、為尹は「いかにせんをのの山柴ことたえてなをたてかぬる宿の煙を」などと詠み、播磨細川ほそかわ(現兵庫県三木市)を返付され、当庄も近い将来返付される見込となった(なくさめ草)。文明八年(一四七六)二月一三日、山城三鈷さんご(現京都市西京区)領の小野社梵網経供料田一二町の当知行が同寺善空に安堵され(「後土御門天皇綸旨案」三鈷寺文書)、同一〇年一〇月小野庄内梵網経田の当知行が幕府より三鈷寺に安堵されている(「三鈷寺領目録」同文書)

小野庄
おののしよう

現小野を遺称地とする庄園。嘉吉二年(一四四二)一〇月の赤松教実言上状(康富記同年同月条裏書)に「摂州有馬郡内鴨社領小野庄」とみえ、京都賀茂御祖かもみおや(下鴨神社)領であった。同言上状によれば、当庄預所は社司祐冬であったが、祐冬が出仕しなかったため秀俊に奉行させたところ、秀俊は預所職を押領したうえ逐電し社人の資格を失った。このため赤松(有馬)教実はどこに年貢を納めてよいかわからないので、本家分は指定先に預け置いたが、社家分は知行人を決めてくれれば先例どおり収納することを約束している。

小野庄
おののしよう

灯油免田を含む興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の平群へぐり郡に「小野庄田畠十二町 不輸免田畠八町 公田畠四町」とある。不輸免田畠はすべて灯油料所であり、その条里(括弧内は坪数)飽波西あくなみにし九条六里(一)、一〇条六里(六)・七里(二)。公田畠は飽波西九条六里(一)・七里(一)、一〇条六里(三)・七里(一)。以上の条里によると、小野庄の所在は、現大字窪田くぼたを中心とし、同西安堵に飛地があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報