愛知(読み)あいち

精選版 日本国語大辞典 「愛知」の意味・読み・例文・類語

あいち【愛知】

[一] 愛知県の中西部の郡。矢田川と境川にはさまれた地域で、現在の名古屋市の大部分が含まれていた。
[二] 「あいちけん(愛知県)」の略。

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デジタル大辞泉 「愛知」の意味・読み・例文・類語

あいち【愛知】

中部地方南西部、太平洋に面する県。もとの尾張三河の2国にあたる。県庁所在地名古屋市。人口740.8万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「愛知」の意味・わかりやすい解説

愛知[県] (あいち)

基本情報
面積=5165.04km2(全国27位) 
人口(2010)=741万0719人(全国4位) 
人口密度(2010)=1434.8人/km2(全国5位) 
市町村(2011.10)=37市15町2村 
県庁所在地=名古屋市(人口=226万3894人) 
県花カキツバタ 
県木=ハナノキ 
県鳥=コノハズク

中部地方にあって静岡,長野,岐阜,三重の各県に隣接し,南は伊勢湾,三河湾を経て太平洋に臨む。東西約106km,南北約94kmで,知多・渥美両半島の突出によりカニの甲羅状を呈する。

明治以前,愛知県は境川より東の三河国と西の尾張国からなっていた。近世には尾張国には親藩の尾張藩(名古屋藩)が置かれたが,三河国には吉田藩(1869年豊橋藩と改称),岡崎藩田原藩など譜代諸藩と天領,旗本領が散在した。1868年(明治1)尾張藩付家老成瀬氏の犬山藩が立藩し,天領,旗本領などを管轄する三河裁判所(のち三河県)が置かれたが,翌年伊那県に編入された。71年廃藩置県を経て尾張は名古屋県,三河は額田(ぬかた)県に統合され,翌年名古屋県は愛知県と改称し,額田県を併せて現在の愛知県が誕生した。

豊橋市牛川町の石灰岩採掘現場で1957年に発見された長さ約10cmの化石骨は,洪積世に生きていた推定身長134.8cmの成人女性の左上腕骨片であることがわかり,日本では数少ないネアンデルタール級の化石人類として鈴木尚により牛川人(うしかわじん)と命名されている。先土器文化は,加生沢(かせいざわ)遺跡(新城市)の前期旧石器とされるものも含めいくつかの遺跡で知られてはいるが,遺跡,遺物とも多いとはいえない。

 縄文文化の遺跡はこれに比して多く,研究史も厚い。まず縄文草創期の酒呑(しやちのみ)ジュリンナ遺跡(豊田市)では,局部磨製石斧などの石器と細隆起線文土器などが伴出し,東海地方の縄文文化形成期解明の手がかりを与えた。早期の遺跡は知多半島,三河高原山間部に多く,押型文土器を指標とする。入海(いるみ)貝塚(知多郡東浦町),粕畑貝塚(名古屋市南区)など学史的にも著名なものが多い。知多半島先端にある先苅貝塚(知多郡南知多町)では,内海谷の現海面下約10mで早期押型文の高山寺式土器が発見され,当時の海面が現在より15mほど低かったという重大な事実が明らかになった。縄文後・晩期では伊川津貝塚(田原市),吉胡(よしご)貝塚(田原市),五貫森貝塚(豊橋市)など大貝塚を伴う集落址が多く,うち伊川津や吉胡では抜歯,叉状研歯のみられる人骨多数が出土し,縄文人の形質・習俗の研究を進展させた。

 弥生文化では,前期の西志賀貝塚(名古屋市西区),中期の瓜郷(うりごう)(豊橋市)などほとんどが標式遺跡であり,貝塚を伴う集落址が多い。瓜郷,篠束(豊川市)などでは農耕具など木製品多数が出土した。後期には三遠式銅鉾鐸,また特に尾張地方では宮廷式土器などと呼ばれる華麗な土器がみられる。古墳は県内に約2500基ほどが確認されている。前期古墳としては4世紀後半で県内最古の前方後円墳とされる瓢箪塚古墳(東之宮古墳。犬山市)など,中期では東海地方最大の前方後円墳断夫山(だんぷやま)古墳(名古屋市熱田区)などがある。後期には大型墳が姿を消して,群集墳が多くなっている。

 歴史時代では,尾張・三河国境にまたがる広範囲な猿投(さなげ)窯,さらに知多窯(常滑市),渥美窯(田原市)などの窯業関係遺跡が多い。このうち猿投窯は古墳時代の須恵器窯から室町期の山茶椀窯まで前後900年間,1200基以上からなるが,ことに奈良・平安期,中国陶磁の影響のもとに発展した灰釉・緑釉陶器生産史の研究に基本資料を与えている。
尾張国 →三河国

伊勢湾と敦賀湾を結ぶ本州地峡帯の太平洋岸に位置し,古くから東・西日本の両文化圏の交錯地としての性格を強くもち続けてきた。律令制施行以前は濃尾平野の尾張国,岡崎平野の三河国,豊橋平野の穂国の三つに分かれていたが,施行後は稲沢市松下,下津(おりづ)付近に国府を置く尾張国,三河と穂を合わせて豊川市白鳥町に国府を置く三河国が定められ,今日までの地域形成の基盤ができ上がった。中世には,木曾川をはさんでこの地はしばしば東西勢力の接触する場となり,源平の墨俣合戦,承久の乱の木曾川の戦などがおこった。その後の地域発展の歴史的基盤をなしたのは,木曾川,矢作(やはぎ)川,豊川などの沖積平野の発達による耕地の拡大と,農業技術の発展に伴う農業生産力の飛躍的増大によるところが大きい。戦国時代に出現した織田信長豊臣秀吉徳川家康が天下統一を成し遂げるに至った要因としても,京に近いという位置的好条件に加えて,この豊かな経済力が大きな役割を果たしたと説明されることが多い。近世に入り,親藩徳川氏の城下町として成立した名古屋はこの地方の中心的性格を強める一方,幕府を擁する江戸を中心とした東国と,商都大坂を代表とする西国との結節点として発展した。一方,三河では10前後の譜代小藩による分割統治が行われ,強力な中心都市は出現しなかったが,飯田街道,伊那街道などの陸上交通に加えて,矢作川,豊川の水運の発達により,信州内陸部との結び付きを強め,岡崎吉田(豊橋)など幾多の宿場町や河港町が繁盛した。明治時代に入り,1889年の東海道本線全通は愛知県の結節点としての性格を決定的なものとした。さらに99年に私鉄関西鉄道会社(のちのJR関西本線)が湊町まで,1911年に中央線,第2次世界大戦後になって64年に東海道新幹線,65年に名神高速道路が開通し,東西文化交流の地として発展してきた。2005年には21世紀最初の万国博覧会が瀬戸市,長久手町を中心に開催された。

愛知県の地形は三河高原,尾張丘陵の山地・丘陵部と,濃尾,岡崎,豊橋の平野部に大きく区分される。三河高原は大部分花コウ岩類からなり,一部に火山岩,第三紀層地区(設楽盆地)を含んでいる。豊川河谷に沿って中央構造線が走るが,その南側の外帯には赤石山脈から続く弓張山地を経て,渥美半島の骨格をなす秩父古生層の山地が点在する。尾張の東部は鮮新・更新統からなる知多半島に続き,瀬戸陶土層,常滑ケツ岩層に多量に含まれる陶土は瀬戸,常滑の窯業地帯を支えている。濃尾平野(尾張平野)は面積約1800km2と関東平野に次ぐ日本で第2の平野であり,北から犬山を扇頂とした木曾川扇状地,自然堤防地帯,三角州低地と続く。扇状地ではかつては桑園一色であったのが,戦後畜産,野菜作中心に変わり,自然堤防上には宮重のダイコン,稲沢の苗木,一宮市浮野(うきの)の養鶏団地などがみられ,三角州低地では米作のほかにれんこん栽培,ハウス園芸などが盛んで,いずれにおいても名古屋という大消費地をひかえての集約的な近郊農業が展開してきている。尾張の一部である知多半島は丘陵が多く,長い間水不足で悩んできたが,1961年完成の愛知用水によって畑地灌漑が拡大し,野菜,ミカンなどの生産が増え,品質が向上した。岡崎平野(西三河平野)は矢作川の沖積平野と碧海(へきかい)台地からなり,1880年明治用水の通水により大正~昭和初期には日本のデンマークと呼ばれるほどの農業先進地であった。しかし,戦後は工業化,宅地化の波におされ農業の地位は後退してきている。豊橋平野(東三河平野)は1968年完成の豊川用水の恩恵を受け,カキ,ミカンの果樹栽培を筆頭に養鶏,養豚も行われている。また,1955年以降盛んになった田原市の旧赤羽根町の電照菊の温室栽培に代表されるように渥美半島は日本有数の園芸農業地帯を形成している。高度経済成長期以降,全国的に兼業化が進む中で,園芸,養鶏地帯としての愛知県の位置は依然として保たれ,95年の農林統計によればキャベツ(全国の14.2%),キク(25%),観葉植物(43.6%)が全国1位の生産量をあげ,ブロッコリー,カリフラワーカーネーションが2位,タマネギ,トマトなどの蔬菜類が5位以内に入っている。明治末に始められ,戦後盛んになった名古屋コーチンで知られるニワトリの飼育数は茨城県に次いで全国2位(3.9%)で,豊橋,一宮,高浜,名古屋の各市で盛んである。なお三河湾,伊勢湾および渥美半島外海を漁場とするイワシ,エビ,カレイなどの沿岸漁業のほか,大正末に始められ,全国5位を占めるノリの養殖と,80年代に入って急速に伸びたウナギ(全国1位,31.7%)の養殖が注目される。

愛知県の工業は,繊維工業や陶磁器を主とした窯業土石製造業などの地場産業を中心に発展してきた。近世から濃尾平野の自然堤防上は綿作が盛んで,また知多,三河地方もそれぞれ知多木綿,三河木綿の産地として知られてきた。明治になって矢作川流域では,水車を利用した和式紡績ガラ紡が1878年に始められたが,明治の半ばごろから洋式紡績に変わっていった。80年イギリスの機械と技術を導入して官営愛知紡績所が額田郡大平村(現,岡崎市)に,85年名古屋紡績,87年尾張紡績が名古屋に設立された。また養蚕の奨励によって丹羽郡,葉栗郡および豊橋地区で製糸業が成立し,豊橋は戦前,生糸の生産では全国一であった。一宮町(現,一宮市)で絹綿交織物(まぜおりもの)が,さらに津島町(現,津島市),尾西町(現,一宮市)に毛織物業(尾西織物)が興って繊維工業の基盤が築かれた。この繊維工業が中京工業地帯の中心となり,1965年まで工業製品出荷額の首位を占めてきた。他の工業地帯に比べて,繊維工業とならんで比重の高いのが窯業で,瀬戸,常滑,名古屋の3市を中心に発達してきた。瀬戸市が窯業地として名をはせるのは鎌倉時代からで,宋で陶法を学んだ加藤景正が地元でとれる木節(きぶし)粘土,蛙目(がいろめ)粘土を用い焼物を始めたのが起源とされている。その後江戸時代後期に加藤民吉が磁器製造に成功したこと,明治後半の石炭窯の導入などにより窯業の町として飛躍的に発展していった。現在では隣接する尾張旭市とともに輸出向けの洋食器やノベリティ(装飾陶器)を産している。常滑市では陶管,タイル,衛生容器製造を特色とし,高浜市,碧南市には三州瓦の工場が集中している。これに対し,明治以降輸出陶器の絵付業地として発達した名古屋には日本陶器,日本碍子,鳴海製陶などの大規模工場が立地している。このほかに地場産業として,岡崎の石碑,灯籠などの石製品,八丁みそ,半田のしょうゆ鳴海,有松(ともに名古屋市)の絞(有松絞),あま市の旧七宝町の七宝焼などが有名。こうした古くからの伝統をもつ軽工業優位の工業地帯は,第2次世界大戦中の軍需工業地帯の時期を経て,戦後,名古屋港南部埋立地に製鋼工場,石油コンビナート,火力発電所などの建設をみたことにより,重化学工業地帯として変貌していった。1937年刈谷の自動織機から発展して挙母町(のち拳母市)に進出したトヨタ自動車の本社は,翌38年に挙母工場(現在の本社工場),59年には元町工場を設立して,市名が豊田市と改称されるほどの躍進をみせた。さらにこの豊田市における自動車工業の拡充発展により,愛知県は自動車王国として知られるに至った。94年の工業統計によれば業種別出荷額では輸送機器が44.3%を占め,次いで一般機器(9.6%),鉄鋼(5.5%)であり,重工業の比率が80%に及んでいる。それに対して食料品(4.7%),プラスチック(4.2%),繊維(1.6%)や窯業土石(3.0%)を含む軽工業は20%にとどまる。

衣浦湾に流れ込む境川によって県内は対照的な性格をもつ尾張と三河に大きく二分される。高温多湿な夏と伊吹おろしの冬という寒暖の差のはげしい気候の濃尾平野をもつ尾張に対して,温暖な気候の岡崎および豊橋平野をもつ三河。近世62万石の威風を誇った尾張藩による統一支配下にあった尾張に対して,十数藩による分割統治が続いた三河。このような異なる環境,伝統のもとに保守的,倹約的な尾張人気質,質実剛健な三河人気質が生み出され,ことばの上でも名古屋弁と三河弁が対置される。

 濃尾平野には前述したように豊かな農業,工業が展開してきたが,その一方で木曾川や日光川などのはんらんによる水害に悩まされてきた。1959年の伊勢湾台風では三角州低地が壊滅的な被害をうけた。60年代以降地下水くみあげによる地盤沈下現象も顕著になり,274km2におよぶ0メートル地帯が広がり,最低水準点標高は78年において-2.326m(弥富市の旧十四山村)という状態であった。その後,同地点での沈下速度は弱まったとはいえ,93年までにさらに約10cmの沈下が認められた。こうした低湿地にも名古屋を中核とした都市化の波は進み,春日井市,小牧市などの丘陵地とともに人口増加地域になっている。また,地表面下は1600mをこす深層部まで新生代の礫(れき)層が続き,そこの熱い地下水をくみあげて成立した長島温泉(三重県)や尾張温泉(蟹江町)などの温泉群が名古屋からの観光保養地としてにぎわいをみせている。尾張北部の丘陵地は観光資源が豊富で,犬山城(国宝),犬山モンキーセンター,明治村,さらに屋外民族博物館〈リトルワールド〉などがある。知多半島は1886年国鉄(現JR)武豊線,明治末に名鉄常滑線,昭和初めに名鉄河和線が開通し,道路も整備されて工業化,宅地化,観光地化が進んできている。半島西岸には東海市,知多市の,東岸には半田市の臨海工業地帯が展開している。観光地として春は潮干狩り,夏は海水浴,秋はミカン狩りでにぎわう。

 三河は県の1/3を占める三河高原の山地部をはさんで,矢作川流域の西三河と豊川流域の東三河に分けられる。西三河の政治・経済・文化の中心都市は長らく岡崎市であったが,1937年トヨタ自動車本社が進出してからは豊田市の中心性が高まってきている。また,安城市をはじめとする西三河の各都市は鉄道,道路で名古屋市と緊密に結ばれ名古屋の衛星都市化の傾向を強めている。東三河の中心都市は豊橋市で,三河湾臨海部では港湾の造成が進み,北隣する豊川稲荷で有名な豊川市,豊川水運の盛んだったころ河港として栄えた新城市とともに工業化が目だってきている。渥美半島が先進的農業で,また平野部が工業化と都市化で活気があふれているのに対して,三河高原の山間部は豊富な林産資源も十分にいかしきれず,若年層の流出にともなう深刻な過疎化に悩んでいる。茶臼山や鳳来寺山のある三河高原は天竜奥三河国定公園に指定されており,野外教育および高齢者保養の場として利用されている。
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日本歴史地名大系 「愛知」の解説

愛知
あいち

[現在地名]宜野湾市愛知・長田一丁目

長田ながたの北にある。もとは乾隆四五年(一七八〇)頃に中城なかぐしく間切から移住した人々が、愛知原あいちばるに入植し構えた、宜野湾じのーん村と神山かみやま村にまたがる屋取集落という(宜野湾市史)。一九三九年(昭和一四年)宜野湾から愛知原・胡麻川原ぐまがーばる、神山から東原あがりばる墾良増原くんらましばるを分離して行政区愛知が設置された。

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世界大百科事典(旧版)内の愛知の言及

【哲学】より

…ソロンにとって,人生上,世間上の知恵とは,神々を畏敬し人間の有限性をわきまえるということであった。次いで前6世紀後半以降,ピタゴラス学派において,〈愛知〉は,名利を離れて知を愛求するという意に深められたようである。 これらの考えを受けて,前5世紀後半のソクラテス,およびその弟子プラトンの段階に至って,ギリシアにおける〈愛知〉の意味はほぼ確定した。…

※「愛知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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