数寄(読み)スキ

デジタル大辞泉 「数寄」の意味・読み・例文・類語

すき【数寄/数奇】

《「好き」と同語源。「数寄」「数奇」は当て字》風流・風雅に心を寄せること。また、茶の湯生け花などの風流・風雅の道。「―しゃ
[類語]物見高い物好き物好きしゃ好事こうず好事家こうずか酔狂道楽多趣味悪趣味好奇好奇心新しがり新しがり屋新し物好き初物食い心寄せ好き好き気に入りお気に入り趣味好み嗜好しこう同好横好き愛惜こだわるこだわりいかれる凝り性偏執狂マニアマニアックモノマニアックモノマニアむしおたくつうれ者凝り屋愛好のぞのぞき見のぞき見るのぞき込む盗み見るうかが透き見野次馬野次馬根性興味本位興味津津しんしんの目たかの目目を輝かす目を奪われる見る目ぐ鼻ぎ回る助平根性物珍しい

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改訂新版 世界大百科事典 「数寄」の意味・わかりやすい解説

数寄 (すき)

茶の湯を意味する言葉。平安時代には,〈好く〉の連用形である〈好き〉は色好み,あるいは風流文雅を好むこと,の意味であった。鎌倉時代に入ると,色好みとは区別して〈数寄〉という文字が使われるようになったが,それはもっぱら歌道の風流を意味する語として用いられていた。数寄が茶の湯を対象とするようになったことを示す早い例は,歌論集《正徹物語》(1444-52ころ成立)であり,歌数寄に対して〈茶数寄〉という語が用いられている。1526年(大永6)村田珠光の嗣子宗珠のもとを訪れた連歌師宗長は〈下京茶湯とて,此ごろ数寄などいひて,四畳半敷,六畳舗,おのおの興行〉(《宗長手記》)と記しており,16世紀に入ったころには〈数寄〉という語が茶の湯を意味するようになっていたことが知られる。その当時,闘茶こそ衰退していたが,淋汗の茶があり,東山殿中における唐物で荘厳された茶の世界もあった。宗珠の推進していたのはそのような茶の湯とは別のもの,すなわち(わび)の茶であり,宗長はそれを〈数寄〉と記したのである。《日葡辞書》(1602)には,〈スキ(数奇・好き)〉とは〈心を傾け好むこと〉〈茶の湯の道〉と説明されている。また《日本教会史》(1622完成)には,数寄をめざす人々は〈東山殿の古い様式を部分的に改めて,この茶の湯の様式をますます完成してゆき,その結果,現在流行している数寄と呼ばれている別の様式を作り上げた〉と記されている。17世紀には,数寄といえば侘茶を指すようになり,侘茶が茶の湯の本流として位置づけられるようになった。17世紀末に茶道の称がおこり,元禄年間(1688-1704)ころからは数寄道は茶道と呼ばれるようになる。
茶道
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「数寄」の解説

数寄
すき

日本の美意識の一つ。時代によって変化がある。平安時代の「好き」は恋愛芸道への傾倒をいい,「数奇」と表現された。しかし「数奇」はもともと不幸を意味したことから,室町時代には「数寄」と書き,数々の茶道具取合せをいうようになった。戦国末期の1564年(永禄7)の「分類草人木(そうじんぼく)」には「近代茶ノ湯ノ道ヲ数寄ト云ハ」とあり,このときには「茶の湯」が定着していたと考えられる。江戸中期には「茶道」の語が一般的となる。明治期に輩出した実業家茶人をとくに「数寄者」とよんだ。

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世界大百科事典(旧版)内の数寄の言及

【茶道】より

…茶道という言葉は17世紀初頭になって,規範的な〈道〉の思想が強く意識されて登場してくる。それまでは茶の湯とか数寄(すき)と呼ばれており,今日でも茶の湯と茶道はほとんど同義に用いられている。また〈さどう〉〈ちゃどう〉両様のよみ方があって一定しない。…

※「数寄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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