柳田村(読み)やなぎだむら

日本歴史地名大系 「柳田村」の解説

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]柳田村柳田

町野まちの川に上町かんまち川が合流する地点を東端とし、町野川上流に広大な村域を有する。東は国光くにみつ村・石井いしい村・笹川ささがわ村、南は寺分てらぶん村・十郎原じゆうろうばら村、西は五十里いかり村、北は麦生野むぎゆうの(現輪島市)。村内には重年しげとし日詰脇ひつめわき白山はくさん百万脇ひやくまんわき四谷よつや上谷かみや野田のた金山かんやまなどの小集落がある(鳳至郡誌)。「やないだ」ともよんだ。応安六年(一三七三)一月五日、柳田村白山宮において安養あんよう寺金剛仏子性覚が大般若波羅蜜多経(八幡寺蔵)を書写している。永正四年(一五〇七)四月四日の岩倉いわくら(現輪島市)の千手観音棟札の奉加衆のうちに柳田法祐入道の名がみえ、銭一貫五〇〇文を奉加している。正保郷帳では高一千四八九石余、田方二一町七反余・畑方二四町八反、新田高三八石余、この数字は笹川村を含んでいる。

柳田村
やないだむら

[現在地名]羽咋市柳田町

羽咋村の北、一宮寺家いちみやじけ村の東に位置し、眉丈びじよう山の南西麓丘陵と邑知おうち潟北辺の低平地に立地。垣内に猫目ねこのめ新保しんぼがある。明応八年(一四九九)一二月二四日の畠山義元判物(気多神社文書)に「楊田」とみえ、気多社免田が所在。楊田宮司分・楊田領家分・楊田地頭分に三分割されていたと推定される。楊田宮司は気多社社務職の一つで、同社の年中行事を分掌していた(文禄三年六月「御神納物蔵入帳」気多大宮司家文書)。当地所在の同社免田は「楊田免田」とよばれ、社役を負担していた。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)には、年貢負担者として能登・船戸(左近)・駒口・左近五郎がみえる。楊田免田の一つ「くそ川屋敷」にある権検校職田は、天文七年(一五三八)一二月一三日に気多社社坊正覚坊玄昭より玉蔵坊玄誉へ譲られ(「正覚坊玄昭譲状」気多大宮司家文書)、次いで同坊智綱から兄弟の桜井基輔へ伝えられ、永禄四年(一五六一)一二月一三日、石動せきどう山西蔵坊栄快に寄進している(「桜井基輔寄進状」同文書)

柳田村
やないだむら

[現在地名]額田町桜形さくらがた

おと川の河岸段丘左岸に集落が立地。対岸は名之内なのうち村の集落である。乙川水系の山間部では当村付近が最も広い河岸段丘になっている。東は竹沢連たけざわれ村、南西は南須山みなみすやま村、南は寺野てらの村、北西は大林おおばやし村と各々山で接し、北は乙川で名之内村と境する。

中世、日近ひちか中山なかやま郷に属したという。「三河堤」は、永仁年間(一二九三―九九)に高氏所領日近郷一二ヵ村に入れている。「朝野旧聞藁」では中山庄は二〇余ヵ村であり、「古は田口・秦梨・岩戸・麻生・柳田等七ヵ村にして、当時これを中山七名と唱ふ」と記す。徳川家の祖の史料に使用される参州本間氏覚書(朝野旧聞藁)に記す松平伝承は、一五世紀初めに松平親氏が泰親とともに柳田の山内某を降伏させたとある。

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]秋田市柳田

太平たいへい川に沿って南北に帯状に続く集落。南は広面ひろおもて村、北は八田はつた村と境する。「楊田やなぎだ」の初見は嘉禎四年(一二三八)の将軍家政所下文案(肥前小鹿島文書)である。

<資料は省略されています>

楊田は豊巻とよまき百三段ももさだとともに、文治五年(一一八九)奥州征伐の功として、源頼朝から橘公業に与えられ、その子公員に譲り渡した。村内に現在も残る字古道ふるみちについて「適産調」に「古道 天正以前太平城より秋田城則湊に通ひし道也」とあり、太平たいへいより村内の馬上田ばじようでんを通り山を越えて新藤田しんとうだに出、さらにみなとに抜ける道が通じていた。

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]湯沢市柳田

雄物川右岸、湯沢町から西馬音内前郷にしもないまえごう村(現雄勝おがち郡羽後町)に至る街道沿いに位置する。北は八幡やわた村・金屋新田かなやしんでん村、東は金屋かなや村、南と西は、雄物川を隔てて貝沢かいざわ(現羽後町)と境する。

奥羽永慶軍記」によれば、小野寺氏の有力家臣として、この地を支配したと思われる柳田氏は、天正一〇年(一五八二)八月、由利衆が小野寺氏を大沢おおさわ(現平鹿ひらか郡雄物川町)に攻めた折に出陣している。

柳田村
やなぎたむら

[現在地名]深浦町柳田やなぎだ

北は日本海に面し、道路が海岸沿いにほぼ東西に発達し、東は支村の江沢えざわ、西はしま村に通じる。北流して日本海へ注ぐ大童子おおどうじ川をさかのぼると大童子おどじ村がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に二九・六七石とある。「折曾乃関」には天和年間(一六八一―八四)支村の江沢・桜沢さくらざわ桜沢地子さくらざわじし新田を含めた四ヵ村の総称とみえる。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二二町六反一畝二〇歩、村高一六四・三二九石、うち田方二一町四畝一三歩で一五八・三四石、上田から下々田まで設定され、下田が一六町二反五歩、一一三・四一二石とあり、畑方一町五反七畝七歩で五・九八九石、上畑がなく中・下・下々畑で下畑が六反八畝一七歩、二・〇五七石とみえ、一畝二歩の郷蔵屋敷があった。

柳田村
やないだむら

[現在地名]氷見市柳田

東は富山湾に面し、西は布尾山ぬのおやま丘陵、南東は島尾しまお村に続き、北はくぼ村に接する。正保郷帳では高九二五石余、田方三六町余・畑方二五町七反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高八九六石・免五ツ一歩、小物成は山役二七匁、塩竈役三三六匁五分(ほか一四五匁五分退転)、塩役七六匁八分(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の高免等書上帳(折橋家文書)によれば、元禄一二年(一六九九)の畑開六六石余、同一三年の畑新開二石余があり、百姓七四・頭振一四、その他四。寛政元年(一七八九)には高五五〇石、家数九五・人数五七三という(窪村のあゆみ)。天保四年(一八三三)の家数一〇四(「家数調理帳」折橋家文書)

柳田村
やないだむら

[現在地名]倉敷市児島柳田町こじまやないだちよう児島小川こじまおがわ八丁目

味野あじの村の北、神山かみのやま(二〇七・五メートル)石鉄いしづち(二二〇・六メートル)の南麓に位置する。寛文四年(一六六四)備前備中当御代新田帳に柳田村新田として高三石余がみえる。享保六年(一七二一)の田畠三八町三反余、池一三、家数七五・人数五四〇(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高五五一石余、直高七五〇石余で池田和泉の給地、田二七町九反余・畑一〇町五反余、池一四、樋二五、井戸一七、育麦蔵一、家数一一〇・人数六九八、寺一軒(吉塔寺)、牛五四、大工三・紺屋二(藍瓶二本)、木挽・鍛冶各二、桶屋一。宝永五年(一七〇八)の山畝約二〇町、うち一九町は往古よりの百姓自林、安永三年(一七七四)には味野村と山論が起きたが、翌年に落着した(撮要録)

柳田村
やなぎだむら

面積:一〇四・一四平方キロ

能登半島先端中央部に位置し、西から北は輪島市、東は珠洲すず市・内浦うちうら町、南は能都のと町に接する。北西端に鉢伏はちぶせ山があり、東部は宝立ほうりゆう山の前山地帯で、その間に挟まれた北に開けた盆地状の平地は、樹枝状に流下する川によって養われる。これらの川は村中央部で合流し、町野まちの川となって輪島市内へ流入する。鉄道はないが交通は比較的便利で、村域を主要地方道が二本通じ、南側を奥能登大規模農道が東西に通る。全村の約八五パーセントは山林で、現在は約一万町歩が一村一森林区となっている。近世以前は薪炭・緑肥・用材の供給源であり、また木地師の活動の場であり、紙漉も行われた。第二次世界大戦以前は請山をしたうえでの製炭が盛んで、県内第一の木炭生産地であった。

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]梁川町柳田

新田につた村・梁川村の西に位置。梁川と保原ほばら(現保原町)を結ぶ道が通り、その道を挟み集落が形成され「市街ノ光景ヲ為」していたという(信達二郡村誌)。天文二二年(一五五三)の晴宗公采地下賜録によれば、庄司乳母・中野常陸介に伊達東根だてひがしね「かや場」のうちの「かミうち在家」「いかつち在家」「中五郎内在家」などが与えられている。「かや場」は当地の萱場かやばに比定され、同地は梁川・粟野あわのの入会地であったとみられる。古高新高帳に村名があることから、万治二年(一六五九)までに近世村として成立していたとみられ、米沢藩領時代の古高五六五石余、幕府検地による新高五〇三石余。

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]新城市八束穂やつがほ

竹広たけひろ村の北、連吾れんご川上流の東にあり、名高田なこうだ村の南にあたる。近世を通じて新城藩領。近世の初め頃に南部の伊那街道沿いに、竹広村とともに新間塚しんげんづか町を出し、さらに下々しもそう村北部とともに分郷として新間柳しんげんやなぎ町を形成した。安政七年(一八六〇)の火消人数定(新城町誌)の家数は五。

村域東部は信玄しんげん台地の北部にあたり、字さいかみは天正三年(一五七五)設楽したら原の戦で武田勝頼が観戦した所といわれる。

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]胆沢町南都田なつた 柳田

都鳥とどり村の北に位置し、北は胆沢川を挟んで永徳寺えいとくじ(現金ヶ崎町)。天文八年(一五三九)九月一〇日、石川又太郎は当村の二千刈などを与えられている(「柏山明吉知行宛行状」中尊寺文書)。寛永一八年(一六四一)の柳田村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田方一二六町九反余・代一六一貫五四文、畑方二〇町二反余・代八貫九五五文、名請人数八四。正保郷帳では田方一五三貫七九七文・畑方八貫八七一文、ほかに新田高七貫三四一文。

柳田村
やなぎだむら

[現在地名]鶴岡市柳田・稲生いなおい一丁目・青柳町あおやぎちよう大西町おおにしまち

番田ばんで村の北、青竜寺川が鶴ヶ岡城下の西を流れるあたりの西岸にある。地名は自生する柳の多い地帯であったことによるとの伝えもある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一二九石余。寛永元年庄内高辻帳では高二一四石余。正保郷帳では田九一一石余・畑九三石余、寺領一五石余、新田がある。この高には新町しんまち村などが含まれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報