〈京都・山城寺院神社大事典〉
豊臣秀吉は慶長三年(一五九八)八月一八日に死去、それを祀るため現在地の東方、東山の
慶長四年四月一六日から八日間にわたり仮殿竣工による遷宮式が営まれた(舜旧記)。一七日には勅使が派遣されて「豊国乃大明神」との神号が宣下されたが(壬生家官符留)、その由来を「豊国大明神祭礼記」は「日本之総名豊葦原中津国ト云ヘル故也、太閤秀吉公者、依為和朝之主、奉号豊国大明神与」とする。一八日には正遷宮の儀式が行われ(豊国社記)、この日の群集は限りなしといわれるほどであった(義演准后日記)。一九日には豊国大明神に正一位の神位が授けられ、徳川家康・毛利輝元らも参詣した。二〇日には神楽の奉納、二一日には「天道祓」二〇〇座が修され、二二日は「神道護摩行事」が吉田家により行われた。二三日には振桙・万歳楽・延喜楽などの舞楽十番が演ぜられ、遷宮式の終わった翌二四日には大和四座の「申楽」が法楽として演能された(豊国社記・義演准后日記)。
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京都市東山区に鎮座。一般には〈ほうこくさん〉と呼ばれている。1598年(慶長3)8月18日に死去した豊臣秀吉は東山の阿弥陀ヶ峰に埋葬されたが,彼をまつるため山麓に創建され,翌年〈豊国大明神〉の神号と正一位の神位が宣下された。豊臣秀頼は吉田兼見を社務に,兼見の弟神竜院梵舜を社僧に,孫の萩原兼従(かねより)を神主に任命した。秀吉忌日の8月18日と正遷宮の行われた4月18日が例祭日となったが,とくに秀吉七回忌の1604年8月には,臨時祭礼が盛大に行われた。そのにぎわいは《豊国祭図屛風》《豊国臨時祭礼図屛風》が生き生きと伝えている。豊臣氏滅亡後,江戸幕府は社号を停止し社殿を破棄したため,以後社殿はまったく衰退したが,1868年(明治1)維新政府は再建を決定,73年別格官幣社に列し,80年5月に竣工して名実ともに復興した。現在は伏見城の遺構である唐門と拝殿,本殿を中心に,絵馬舎,神饌所,社務所,宝物館などが建ち並んでいる。なお創建時の唐門は,竹生島にある宝厳寺に移建され,現存する。
執筆者:細溝 典彦
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京都市東山区大和大路(やまとおおじ)正面茶屋町に鎮座。祭神は豊臣秀吉(とよとみひでよし)・秀頼(ひでより)・秀長(ひでなが)を配祀(はいし)する。1598年(慶長3)秀吉が没すると、その遺言により翌年東山阿弥陀峰(ひがしやまあみだみね)に埋葬され、その山下に廟社(びょうしゃ)を建立、豊国(ほうこく)大明神と称した。近世に入ると顕著にみられる人霊祭祀・英雄祭祀の先例を開いた。社領1万石、社務職に萩原兼従(かねより)があずかった。その祭礼は勅使が参向し、盛大を極めたが、豊臣氏滅亡後は衰退の一途をたどり、社殿は廃絶し、神体は近くの新日吉神宮に預けられた。明治に入り旧方広寺(ほうこうじ)境内の現社地に再興され、別格官幣社に列した。社宝には国指定重要文化財の狩野内膳(かのうないぜん)筆の金屏風(きんびょうぶ)や伝骨喰(こつじき)の太刀(たち)などがある。また当社の唐門は伏見(ふしみ)城の遺構で国宝に指定されている。
[岡田荘司]
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京都市東山区茶屋町に鎮座。旧別格官幣社。祭神は豊臣秀吉。1868年(明治元)明治新政府は豊臣氏滅亡以後衰退した豊国廟を再建することとし,75年社地を現在地に決定,80年に遷座した。例祭は9月18日。南禅寺金地院より移築した唐門は伏見城の遺構で,国宝。摂社の貞照社は1925年(大正14)の創祀で,北政所吉子命(高台院)を祭る。唐門は国宝
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…74年,楠木正成をまつる神戸の湊川(みなとがわ)神社が創建されると,祭神が皇族でも天神地祇でもなかったので,国家のために特に功労のあった人臣をまつる神社を別格官幣社に列する制度を75年に設け,祭祀は官幣小社に準ずることとした。同年,豊臣秀吉をまつる京都の豊国(とよくに)神社と,徳川家康をまつる日光の東照宮が別格官幣社となり,その後,年を追って増加し,1945年までに28社に達した。28社を祭神別に見ると,南北朝時代の忠臣新田義貞,北畠親房,名和長年らをまつる神社が10社,幕末維新期の主要人物と近世の藩政に功績のあった大名をまつる神社8社,戦国時代の大名をまつる7社,藤原鎌足,和気清麻呂・広虫,藤原秀郷をまつる3社となっており,それら28社の創建の中に,国家神道下の神社政策と,それを支えた歴史観を見ることができる。…
…吉田山山麓の住坊にちなんで神竜院と呼ばれた。1598年(慶長3)豊臣秀吉の死去に際し,兄兼見とともに,吉田神道にもとづく豊国大明神の神号授与,ついで阿弥陀ヶ峯に営まれた豊国廟・豊国神社の創建に力をつくし,その神宮寺別当となった。当代を代表する神道家として名声高く,後陽成・後水尾両帝をはじめ,徳川・豊臣両家の崇信をうけ,豊国神社の経営を安定させ,盛大な豊国祭を行って庶民の人気を得るなど,豊国神社への崇敬を京都に広めた。…
※「豊国神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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