エチルアルコールを含む致酔性飲料。酒の字は酒壺の形状を示す〈〉から生まれたものと思われるが,古代中国で杜康(とこう)がはじめて酒をつくったのが酉(とり)の年であったためなどとする説もある。本来〈さけ〉は日本の在来酒である清酒,濁酒などをさし,〈き〉〈くし〉〈ささ〉などとも呼ばれた。語源については〈栄え〉のつづまったもの,風寒邪気を〈避ける〉意味の〈避け〉から転じたものなどとされる。
日本の酒税法では,酒は〈アルコール分1度(容量比で1%)以上の飲料〉と定義され,液体に限らず糖類でアルコールなどの分子をくるんだ粉末状のものも酒とみなされるが,みそ,しょうゆのようにアルコールを1%以上含むものであっても嗜好(しこう)飲料として供しえないものは酒から除外されている。
酒の種類
酒は,製造法のうえから醸造酒,蒸留酒,混成酒の3種に分類されるが,日本の酒税法では清酒,合成清酒,焼酎,みりん,ビール,果実酒類,ウィスキー類,スピリッツ類,リキュール類,雑酒の10種類に分類される。なお酒税法上の種類名を製品に表示することが義務付けられている。
醸造酒とは,原料をアルコール発酵させたものをそのまま,または上澄みを汲み,あるいはろ過してつくった酒をいう。酒税法上の種類としては,米,米こうじ(麴),水などを原料として発酵させ,ろ過した清酒,麦芽,ホップ,水を原料として発酵させたビール,果実を原料として発酵させた果実酒類中の果実酒(ブドウ酒,リンゴ酒など)で,清酒の発酵液をろ過せず供する濁酒や麦こうじを原料の一部とする中国の紹興酒や韓国のマッカリ,家畜の乳を発酵させたケフィール,クミスなどの乳酒は雑酒に含まれる。
→醸造酒
蒸留酒は,醸造酒の発酵液(もろみ),またはそのろ液やろ過残渣(ざんさ)(酒かす)を蒸留したものをいう。酒税法上の種類としては,アルコール含有物を連続式蒸留機で蒸留した焼酎甲類(ホワイトリカー),デンプン質原料,こうじ,水を原料として糖化,発酵させ単式蒸留機で蒸留した焼酎乙類(本格焼酎)などの焼酎,麦芽などの発芽穀類と水を原料として糖化,発酵させ蒸留したウィスキー,および果実を原料として発酵させ蒸留したブランデーを含むウィスキー類のほか,スピリッツ類がある。スピリッツ類には,中国の茅台酒(マオタイチユウ)のようにアルコール分が焼酎乙類の最高限度である45度を超えるものや,アラック,テキーラ,ラム,アクアビット,ジン,ウォッカなどのようにウィスキー類とは原料あるいは製法が異なるものがこれに含まれる。
→蒸留酒
混成酒とは醸造酒や蒸留酒を原料とし,これらに香料や草根木皮などの生薬(しようやく),色素などを加えてつくった酒で,酒を原料として別な酒をつくるという意味で再製酒ともいう。ベースとして使用される酒としては,アルコール,ブランデー,ラム,ウォッカ,キルシュ,ブドウ酒,ジン,ウィスキー,みりん,焼酎などがあり,草根木皮,果実,果皮,種子,花蕾(からい)などを加え,果汁,はちみつ,砂糖,有機酸などで味をつけ,天然色素または合成色素で着色することが多い。日本のみりん,本直し,白酒(しろざけ),合成清酒,中国や日本の薬酒(やくしゆ),ヨーロッパ系の多くのリキュール類などがこれに属しているが,酒税法上はみりん,合成清酒のほか大部分がリキュール類に分類されている。
酒造りの歴史
酒の起源や製法の発見については多くの民族の間に神話や伝説が伝えられている。聖書では箱舟を降りたノアがアルメニアのアララト山にブドウを植えたとあり,強健な精気を与えるためのライオンの血と,野生から脱皮させるための子羊の血をかけてブドウを育てたと伝えられている。ギリシアではディオニュソスがブドウの栽培とブドウ酒の醸造をはじめたとしている。メソポタミアでは前4000年ころすでにシュメール人がビールをつくっていたと推定され,エジプトで前3000年ころビールを醸造していたハム語系の諸族は,五穀の神オシリスがビールを教えたと信じていた。中国では黄帝(こうてい)のときの宰人杜康が,また禹王(うおう)のとき儀狄(ぎてき)がはじめて酒をつくったといい,日本では木花開耶姫(このはなのさくやびめ)が狭名田(さなだ)の稲で天甜酒(あまのたむさけ)をつくったという。酒は農耕文化の特徴的な産物であり,農作に伴うかずかずの呪術(じゆじゆつ)的,宗教的儀礼に用いられ,農業神が酒神を兼ねることが多い。
人類が最初に飲んだ酒は,土器などの容器に原料を蓄えておくだけで発酵して酒になるブドウ酒などの果実酒やヤシ酒などの樹液酒,馬乳酒などの乳酒であったと思われる。とくに酸味のあるブドウ果汁は雑菌に汚染されることが少なく,嗜好的価値の高い酒を自然発酵で容易につくることができるので,西アジアに始まり,エジプト,ギリシア,ローマを経て,ブドウ栽培可能なヨーロッパ各地に伝えられた。
穀物を原料とする酒は,果実酒と異なり,原料のデンプンを適当な手段で糖分にかえてやらないと発酵が始まらないので,糖化という技術の開発を待たねばならない。糖化反応を触媒する酵素はある種の細菌やカビによって生産され,また発芽穀物や唾液(だえき)に含まれている。高温多湿な夏季が訪れる日本,朝鮮,中国南部からインド亜大陸東端部にいたる東アジアの照葉樹林帯では,カビを穀物に生やしてこうじをつくり,その糖化力を利用して穀物酒をつくった。乾燥した気候でカビの生えることの少ないオリエント,エジプト,ヨーロッパでは発芽大麦(麦芽)のもつ糖化力を利用した穀物の酒ビールが生まれた。また食習慣も酒造法に影響を与え,小麦の伝来とともに粉食の技術を知った前漢末以降の中国では,生の穀粉を練り固めてカビを生やした餅こうじを使った酒造法が主流をなし,粒食をする日本では蒸した米にカビをつけた撒麴(ばらこうじ)で酒がつくられている。このような麦芽やこうじによる穀物酒の発生にいたる進化の中間段階に存在する酒として,焙焼酒(ばいしようしゆ)と口嚼酒(くちかみのさけ)がある。いずれも穀物などデンプンを含むものを原料とし,前者はこれを焼いてデンプンを熱分解し,後者は唾液の作用でデンプンを糖化し,自然発酵させてつくる。焙焼酒は南方の未開民族の間になお現存しているといわれ,フィリピン北部のイフガオ族のタプイという酒は焼米を湯で煮たのち,餅こうじの粉を混ぜ発酵させてつくるが,焙焼酒の痕跡をとどめたこうじ使用の穀物酒といえよう。口嚼酒はかつて太平洋を取り巻く各地域に広く分布し,その痕跡は北ヨーロッパ,アフリカにも残っている。北ヨーロッパの神話によると,ビールの発酵素はオーディン神の唾液であるといわれ,口嚼による麦酒が存在していたことを物語っている。日本では《大隅国風土記(おおすみのくにふどき)》に記録され,沖縄県や鹿児島県大島郡では,最近まで初穂を神にささげる大祭には,塩で歯を清めた未婚の乙女が蒸した米と,水を十分吸わせた生米をかんで壺に吐きため,数日間発酵させた酒を供えた。
蒸留酒が飲用の目的でつくられるようになったのは,ヨーロッパでは16世紀,中国では14世紀の元代であり,日本では15世紀の琉球で焼酒の製造が始められた。しかし蒸留という技術の発見は古く,アリストテレス(前384-前322)は物質の生成流転の仮説を証明するためブドウ酒を蒸留している。ヘレニズム文化の所産である蒸留機は,酒を加熱するフラスコとその口にかぶせてアルコールを含む蒸気を空冷するくちばし付きのキャップ(アンビクスambix)からなり,これを錬金術の道具として使ったアラブ人によりアンビークal-anbīqと呼ばれた。現在のモルトウィスキー,コニャックをつくる蒸留機もほぼ同型でアランビックと称し,日本の焼酎のそれもランビキといわれていた。8世紀,イスラム軍とともにスペインへ移った錬金術はその中心地コルドバよりヨーロッパ各地に伝えられた。13世紀スペインの錬金術師アルナルドゥスは〈蒸留で抽出したブドウ酒の精には生命を永らえさせる不思議な力がある〉として〈生命の水〉と名付けたという。ウィスキーがケルト語でウシュクベーハ,ブランデーがフランス語でオー・ド・ビー,北ヨーロッパのスピリッツがアクアビットと,いずれも〈生命の水〉の名で呼ばれるのもこのためであるといわれる。
これらの酒ははじめ薬として売られていたが,十字軍の遠征(11~13世紀)で東方からもたらされた砂糖,薬草,香辛料を加えたリキュールの製造が14~15世紀のイタリアに起こり,16世紀末にはチョウジ(丁字),カーネーション,アニス,ネズ(杜松)の実で香りをつけた〈生命の水〉が日常生活のなかに用いられるようになった。混成酒の始まりである。ルイ14世も麝香(じやこう),バラ,オレンジ,ユリ,ジャスミンの花,ニッケイ,チョウジのつぼみで付香したり,ソリイというリキュールを愛用したという。
執筆者:菅間 誠之助
飲酒の文化史
中国
中国においては,酒の発明者は儀狄(ぎてき)であるとも,また杜康(とこう)であるともされている。とりわけ杜康の名が広く知られ,酒の神として祭られたこともあれば,ときには酒の代名詞ともなった。日本の酒造職人の総大将〈とうじ〉に〈杜氏〉の文字があてられるのも,杜康にちなんでのことであるという。〈酒は百薬の長〉とは《漢書》食貨志にみえることばであるが,酒はなによりも憂いを忘れさせてくれる妙薬として〈忘憂〉の異名が存在した。また貴賤(きせん)賢愚の別なく無上のよろこびとするところから〈歓伯〉の異名が存在した。
殷(いん)の紂(ちゆう)王が〈酒池肉林〉の遊びにふけって国を滅ぼすにいたったことは史上に名だかいが,《書経》酒誥(しゆこう)篇には周公の言葉として,殷の遺民のなかに酒をたしなむものが多いのは紂王の感化によるものだとのべ,酒は祭祀にだけ用い,ふだんに飲んではならぬと戒めている。たしかに祭祀に酒はつきものであって,《周礼(しゆらい)》によると,王室の酒がかりの酒正は〈五斉〉と〈三酒〉をつかさどり,泛(へん),醴(れい),盎(おう),緹(たい),沈(ちん)の〈五斉〉はすべて神にそなえられた。しかし人間の飲む酒が忘れられているわけではなく,事酒,昔酒,清酒の〈三酒〉がそれであった。注釈のいうところでは,事酒は冬にしこんで春に熟し,昔酒はさらに時間を要し,清酒は夏に熟し,しだいに熟成度がます。また〈五斉〉は〈三酒〉にくらべて味がうすいという。やはり神にそなえられる〈玄酒〉が,実はただの水にすぎないことが思い合わされて興味ぶかい。祭祀だけではなく,あらゆる儀式のさいに酒がつきものであったことは《儀礼(ぎらい)》のあちこちにうかがわれるし,《詩経》賓之初筵(ひんししよえん)篇には朝廷の宴会における痛飲のさまがうたわれている。また〈尭舜は千鍾(せんしよう),孔子は百觚(ひやつこ)〉などと,いにしえの聖人たちもおおいに酒を飲んだことがいいふらされた。鍾,觚はともに杯の名。漢の武帝や王莽(おうもう)の時代には塩,鉄とともに酒の専売制が行われ,また曹操や劉備は禁酒令をしいたことがあったが,このような統制もとりたてていうほどのことはなかった。専売制なら酒の消費量がふえればふえるほど国家の財政はゆたかになるわけであり,曹操が禁酒令をしいたときにも,清酒が〈聖人〉,濁り酒が〈賢人〉の隠語のもとにひそかに飲まれていたのである。大伴家持の歌,〈酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古の大き聖の言(こと)のよろしさ〉はこれにもとづく。しかも,〈何を以て憂いを解かん,唯だ杜康あるのみ〉とうたったのは曹操その人であった。
そのころすでに居酒屋も存在した。司馬相如がかけおちした卓文君と酒場をひらいたことは有名な逸話であり,〈竹林の七賢〉たちが行きつけの居酒屋の名は〈黄公酒壚(黄おやじの酒場)〉であった。〈竹林の七賢〉は名うての酒徒のあつまりであって,たとえば山濤(さんとう)は8斗飲んで初めて酔い,劉伶(りゆうれい)は5斗を迎え酒とした(七賢人)。もっとも,当時の酒はアルコール濃度がひくく,また升目の大きさも後世とは異なるといわれる。〈竹林の七賢〉に代表される魏晋人の飲酒は,酒中に神仙の境地をたのしむことを一つの目的とした。そしておなじく神仙の境地をたのしむまた一つの方法であった〈寒食散〉の服用とも関係があった。寒食散の服用後に体内にたまる熱気を酒によって発散させる必要があったからである。魏晋にはじまる六朝時代以後,酒と文学との関係はいちだんと緊密になった。酒のめでたさを〈酒徳頌(しゆとくしよう)〉にことほぎうたった劉伶,〈篇々に酒あり〉と評された陶潜(淵明),そして唐代にいたっては〈酔聖〉とあだ名された李白,〈卯時酒(ぼうじしゆ)〉と呼ばれる朝酒を得意とした白居易(楽天)などなど。王羲之の蘭亭の会で行われたように,水面を流れくだってくる觴(さかずき)をすくいとりつつ詩をよみ,よみえぬときには罰として大杯についだ酒をほさせる〈曲水流觴(きよくすいりゆうしよう)の宴〉もはじまり,9月9日の重陽(ちようよう)の節供に岡にのぼって野宴をひらき,菊の花を酒にうかべてくみかわす風習は,がんらい邪気ばらいを目的とするものであったが,〈九日〉や〈登高〉の詩題のもとにかっこうの詩の題材となった(曲水の宴)。また茶と酒がそれぞれ功をほこりあって争い,水が仲裁にはいる筋だての《茶酒論》なる戯文学が敦煌写本の一つとして伝わっている。
唐代における各地方の銘酒の名は《唐国史補》にあげられ,ブドウ酒など一部のものをのぞいて中国古来の黄酒系の酒でしめられている。今日,〈茅台酒〉をもって最高とされる白酒系の酒は,元代にその製法が南蕃(なんばん)から伝来し,〈阿里乞(アリキ)〉ないし〈阿剌吉(アラキ)〉と呼ばれて愛飲されたものに由来するという(アラク)。酒造の技術にかんしては北魏の賈思勰(かしきよう)の《斉民要術》,北宋の朱肱(しゆこう)の《酒経》,明の宋応星の《天工開物》などに記述があり,また明代には《酒史》や《酒顚(しゆてん)》などの酒徒の列伝も現れた。
執筆者:吉川 忠夫
イスラム
アラビア語ではハムルkhamrといい,イスラム以前のジャーヒリーヤ時代にイラクやシリアから,ユダヤ教徒やキリスト教徒がアラビア半島内部に酒を持ち込んだものとみられ,イスラム発生期にはメッカの住民はことあるごとに酒を飲むほどになっていた。飲酒の結果,賭け矢(マイシル)遊びにはしり,さまざまな弊害が目につくようになった。このため禁酒についてなん回か啓示を受けたムハンマドは,ついに全面禁酒の啓示(コーラン5章90~91節)を受けるにいたった。酒,賭け矢,偶像,矢占いはいずれも嫌悪すべきものであって,サタン(シャイターン)の業(わざ)であり信仰を妨げるものであるから,これを避けよという命令であった。この啓示はスンナ派四法学派はもちろんのこと,シーア派においても等しく受けとめられ,飲酒はハラームḥarām(禁断)であり,酒類の製造,販売も禁止された。ハディースにも酒が悪徳を誘うものであって,飲んではならないとしたものが多い。問題はハムルと呼ばれる酒の範囲であるが,第2代カリフ,ウマル1世がブドウ,ナツメヤシ,はちみつ,大麦,小麦の5種を原料とした飲物をハムルと断じて決着をつけたといわれる。ウマル1世は〈酒とは人智を曇らすもの〉といっており,以上の5種を原料としたものはもちろん,飲んで酔うものはすべてハラームであるとの考えが支配的になった。これを犯すと80回(奴隷40回)のむち打ちに処すべきであるとしている法学派が大部分であるが,シャーフィイー派はムハンマドと初代カリフ,アブー・バクルの慣行どおり40回(奴隷20回)のむち打ちの刑を加えることになっている。このような厳格な禁酒の掟があるにもかかわらず,必ずしもイスラム世界の各国でこれが厳格に守られているとはいえない。文学史上ではジャーヒリーヤ時代のカシーダ(長詩)の序言の部分に酒がたたえられ,アッバース朝(750-1258)時代にはハムリーヤートkhamrīyāt(酒を主題にした詩)が多くつくられた。中でもアブー・ヌワースは最大の退廃的詩人で,酒屋に入りびたり,同性愛にふけり,数々の悪徳をつんだ。一方,恋愛詩の用語を用いて神への愛をうたいあげる神秘主義詩人においては,ハムルという言葉は神との合一体験に達して,恍惚(こうこつ)とした境地に至ること(ファナー)を象徴的に表すのに用いられた。なお,西アジア特産の酒としてはアラクがよく知られている。
執筆者:池田 修
ヨーロッパ
現在ヨーロッパの国々には,世界的に名声の高い特産酒がその国を代表する酒として知られている例が多い。スペインのシェリー,ポルトガルのポート,マデイラ,ハンガリーのトカイなどのほか,フランスのシャンパン,コニャック,イギリスのスコッチなどが挙げられる。しかし,これらの特産酒が産出国の酒文化を代表するとはいいがたいのが現状である。商品流通の規模が飛躍的に拡大した今日,特産酒の多くは輸出先の飲酒動向により敏感に対応せざるをえなくなっているからである。
ヨーロッパは,それ自体国家単位の集合としてではなく,歴史的に構成されてきた共通の文化要素によって束ねられた社会である。各種の酒が入りまじって存在する今日のヨーロッパの酒文化は,異民族,異部族の文化が重層して,いわゆるヨーロッパ的な生活様式を形成した結果とみることができる。そして,酒文化に種々の様相を示すヨーロッパを,東アジアやイスラムなどと比較すれば,そこに画然としてヨーロッパ固有の酒文化の特質を見いだすことができる。すなわち,ブドウ酒(ワイン)とビールを国民的飲料としていること,そして,容器にオーク材の樽を用いることである。酒は,その原料において自然環境と,その生産技術において歴史的過程と密接な関係をもつものであり,そもそもは外来の飲物であったブドウ酒とビールがヨーロッパ全体に共通の酒として定着していく過程をたどることによって,ヨーロッパの酒文化の特徴を知ることができる。
ブドウ酒は地中海周辺のラテン的・古典古代的生活文化に根をもつ飲料であり,ビールはアルプス以北のゲルマン的・封建制的生活文化を温床としている。ブドウ酒もビールも,その発祥はヨーロッパではない。ブドウ酒はローマ人がギリシア,フェニキアからブドウの木とともに受けついだものである。ビールは古代オリエントの醸造技術がスラブ人,ゲルマン人,ケルト人に伝わり,中世ヨーロッパにおいて今日のビールの原型が完成した。
地中海世界の果樹栽培を主体とした古典農業が伝播(でんぱ)した地域は,比較的早くからブドウ酒醸造・飲用の風習が浸透したが,これは地中海周辺地域の乾燥した風土が,保存可能な飲料であるブドウ酒を水分補給のための生活必需品としたからであった。ギリシアにおいてブドウ酒が酒神ディオニュソスへの信仰と強く結びつき,酒宴の飲みものであったのに対し,ヨーロッパに広まったブドウ酒は,バッカス信仰を受けつぎながら,日常の食事と一体となって,酒としての属性を抑制する飲み方に変わった。そこには飲水の代りにブドウ酒を飲まなければならない自然環境があり,加えてキリスト教文化の影響が,ブドウ酒を他の酒類と異なる飲みものにしたためである。
ローマ帝国の版図拡大にともなって,ブドウ栽培が地中海沿岸からヨーロッパ内陸部へ広がっていったころ,そこではすでに先住のケルト人が大麦の酒をつくっていた。しかし,ケルト人はローマ文化に同化され,彼らの固有な酒文化をガリア地域にとどめてはいない。後世,ケルト人の酒としてわれわれが享受するのはスコットランドの辺境に伝承されたウィスキーで,これはまた大麦の酒を蒸留するという技術において,イベリア半島を通じて伝播したイスラム文化の恩恵を受けている。
ゲルマン人の大移動が始まる4世紀後半までに,ヨーロッパのブドウ栽培は今日の北限をはるかに越える地域に及んだが,ここにゲルマン人が定住すると,古代ローマの文化は各地の修道院に継承,温存され,それを取り囲むようにしてゲルマン的有畜農耕文化が展開する。中世農業革命とも称される三圃制(さんぽせい)農業の成立が,醸造原料としての大麦の調達を容易にした。ビール醸造技術はゲルマン人にも伝承されていたが,知識・技能集団である修道院はブドウ酒のみならずビールにおいても先導的役割を果たした。
中世の修道院は,キリスト教会のミサになくてはならないブドウ酒をゲルマン社会のなかで自給するため,ローマ人が開墾したブドウ園を維持し続けた。その一方,修道院領は麦作農耕の最も先進的な経営単位でもあった。ローマ人のブドウ酒とゲルマン人のビールが共存するヨーロッパの酒文化は,まさにこの時期の修道院を源流としている。
ブドウ酒をオーク樽に貯蔵して熟成させる方法を古代ローマ人は知らなかった。ビール醸造用の木製容器が,ブドウ酒の容器を土器から樽に変えた。さらに,19世紀以降ガラス瓶とコルク栓を組み合わせた容器が大量に使われるようになって,ブドウ酒の長期保存と広域流通が可能になった。ビールもまた瓶と王冠の使用が,ビヤホールから家庭へ,飲用場所を拡大した。
ヨーロッパ東部には伝統的な蒸留酒が数多く分布している。バルカンを中心とした南部は果実を,ロシア,ポーランドなど北部では穀類,ジャガイモ,テンサイなどを原料とする。これらは通常貯蔵せずにそのまま飲用されるが,未熟なにおいを抑えるために,香草,薬草によって香味を賦与したり,シラカバの炭を用いて脱臭することがしばしば行われる。とくにアニスの種子からとる精油を添加したものは,嗜好の地域性がきわだっている。その分布はビザンティン文化の及んだ範囲とほぼ一致する。
ヨーロッパ西部は,スペイン,フランス,アイルランド,スコットランドを結ぶ蒸留技術の伝播経路にブランデー,ウィスキーの産地が連なっている。アルマニャック,コニャック,カルバドス,アイリッシュ,スコッチ,これらはいずれも樽に長期間貯蔵し熟成させる。醸造酒においては,その原料によってブドウ酒とビールの分布に南北の対比が生まれるが,蒸留酒においては,貯蔵,熟成の有無によって東西の酒文化の特徴をみることができる。
執筆者:麻井 宇介
日本
酒は古くはひとりで飲むものではなく,集団の儀礼のなかにあって飲むものであった。集団の儀礼は神と人との交流の場であり,そこで用いられた酒は少彦名命,大物主神などの酒の司(くしのかみ)によりもたらされたものとされていた。倭人が酒をたしなんだことは,3世紀の《魏志倭人伝》の記すところである。飲むにあたって酒坏(さかずき),酒盞(さかずき),鋺(まり)などが用いられ,この酒坏,酒盞などはカシワの葉の上にのせられるのが酒宴の作法であった。古代の酒宴での酒は燗酒(かんざけ)ではなく冷や酒であった。〈儀制令〉の春時祭田条によれば,奈良時代の村では春,郷の老人を集め郷飲酒礼がなされていたし,766年(天平神護2)の越前国足羽郡の郡司の出した書類では,彼は神の社の春の祭礼に酔伏し,装束をつけることもかなわぬようなありさまであった。奈良時代の村人にとっては,社の祭礼などが酒を飲む機会であり,時や所にかまわず酒を飲むようなことはなかった。宮廷での神事や節供には酒宴が催され,大きな盃(さかずき)に満たされた酒が一座の全員にまわされた。一巡するとこれが一献(いつこん)であり,三献が普通であった。料理の品目を献立というのも,この酒宴からきている。まわし飲みではなく,各人の盃に長柄のちょうし(銚子)で酒がつがれ飲むのが,一度の勧盃(けんぱい)であった。勧盃あるいは三献はあくまで儀礼であり,これを宴座(えんのざ)と称した。これに続く穏座(おんざ)はかなり自由にふるまえるものであった。また天皇から殿上人に酒をたまわる淵酔(えんずい)と呼ばれる酒宴も催されていた。奈良時代の酒といえば,山上憶良の〈貧窮問答歌〉にみえる糟湯酒(かすゆざけ)があり,また酒を好んだ大伴旅人のことが知られている。糟湯酒は酒糟を湯にとかしたものであった。宮廷で用いられていたのは,もろみを布袋に入れしぼったものであり,板葺宮出土の木簡に〈須弥酒(すみさけ)〉とある。濁り酒とは別のもので,一般の庶民の口に入るものではなかった。また写経所の職人が,3日に1度は酒を役所から給するようにと要求しているが,その名目は薬分としての酒であって,酒宴の場で飲むためのものではなかった。酒は酒壺に入れられて保存され,そこから提子(ひさげ)に入れられて宴席に運ばれた。《今昔物語集》には酒に関する多くの話が収められているが,提子に酒を入れて熱くわかしたとあるから,平安時代中期以降には燗酒もみられたことが知れる。また色が黄ばんでいたので,酒の泉と知ったとあり,白濁した酒以外のものもあったわけである。隊商をひきいて商売をする水銀商人は,家で酒をつくりこれを蓄えていたし,豪族のやかたには酒倉もみられた。
平安時代の《和名抄》をみると,酒(さけ),醴(こさけ),醪(もろみ),醇酒(かたさけ),酎酒(つくりかえせるさけ)があげられている。醴は一夜酒とも呼ばれ,《延喜式》によれば米4升,蘖(こうじ)2升,酒3升で9升の醴がえられた。工匠や役夫には魚,和布のほかに醴6合が日ごとに給せられていた。醴は甘酒に似たものであったらしい。醪は〈汁滓酒也〉とあり,下等の酒とみられていた。醇酒は厚酒とされ,《新撰字鏡》にはからき酒とある。《正倉院文書》には,雇夫,雇工に辛酒1升を水4合でわり,2日に1度,1人3合あて給すとみえている。酎酒は三重醸酒とあり,焼酎に似たものであったらしい。《和名抄》のあげる酒の種類の内容からすると,酒以外のものは酒よりやや劣る飲物として位置づけられており,それらは宮廷の儀礼には用いられず,労働をする者へ給与されるものであった。おそらく,これらの酒の飲み方は宮廷のそれとはことなっていたことと思われる。《平家物語》にみえる鹿ヶ谷の山荘での酒宴には瓶子(へいし)が並べられていたし,《徒然草》は北条時頼がちょうしに酒を入れ,土器(かわらけ)でみそをさかなに飲んでいたと伝える。集団で飲む伝統は鎌倉時代には正月の椀飯(おうばん)があったが,時頼にみられるように個人あるいは少人数で飲むならわしも一般化していった。時頼は1252年(建長4)に鎌倉中で1軒に1個の酒壺を許し,その余の3万7274個を壊させたが,この酒壺の数は,家々で酒をくみかわすならわしの存在を前提としていた。鎌倉幕府法にはしばしば酒宴の禁止令がみられるが,それは念仏者や僧院の酒宴の禁止であった。また酒宴にひのき折敷(おしき)や華美な器物を用いることも禁ぜられている。酒を個人で飲むことが一般化すれば,酒器をりっぱなものにしようということになり,そこにこの禁令が出された背景があったといえよう。若狭太良荘の百姓の1334年(建武1)8月の申状は,地頭代官の非法を挙げたものだが,そこには代官が正月の節の食の席で,百姓に給すべき酒を給せずこれを他の所に運び,節の食では糟絞(そうこう)を盛って百姓に出したのは,先例をみない希代の所業であると非難している部分がある。農民の間に正月の共同飲食のならわしがあり,そこでは領主側から酒が支給されていたことがうかがえる。室町時代に摂津垂水荘で,村人の在地寺院での寄合いのおりの酒代が領主側から支出されているのも,共同飲食のならわしが広く行われていたことを示している。室町幕府法では,とくり(徳利),ちょうし,提子は雑具ではなく家具として分類されており,酒器が家具として定着していたことを語っている。戦国大名の〈結城氏新法度〉では,瓶子,樽に酒を入れて売る酒売の不正が問題にされ,また朝夕の親類,縁者,傍輩による寄合酒の規模を菜3種,汁1椀と定めているが,他所他家の人の酒宴はこの制限からはずされており,当時の名酒である天野,江川,菩提山を飲むことも認められていた。内々の酒宴の過差は〈宇都宮家式条〉でも禁ぜられている。酒宴の規模は〈吉川氏法度〉でも,〈汁一,菜二,引さい二番,酒二三返,盃は末中〉と定められ,酒の種類は問わなかった。同法度では酒法度とし,〈公界(くがい)にて御酒を下されまじき事〉と定めている。公界が日常の支配体制の外にある存在であるとするならば,酒宴は日常の世界に根ざしたものであり,それゆえに支配者が酒宴の規模について規定するわけである。酒器は共同飲食,神事の場では,ちょうしと木盃(もくはい),瓶子と土盃(かわらけ)が冷や酒を入れるのに用いられた。個人の飲食では燗酒が陶器の燗とくりとちょこにより飲まれるようになり,近世には広く一般化した。燗酒の方法は初めは燗なべに酒を入れ,火にかける直燗から,熱した湯にちょうしを入れる湯燗に変わった。道具も燗なべからちょうし,さらに銅製のちろり,陶器の燗とくりへと変遷したと《守貞漫稿》は記している。近代に入り,日本酒以外の酒が輸入され,酒器も変わり,酒の飲み方も変わったが,酒への観念は伝統的なものが強く残されている。キリスト教の影響で1898年に日本禁酒同盟が成立し,さらに1922年に〈未成年者飲酒禁止法〉が公布されたが,あまり効果はなかった。
→宴会 →酒屋
執筆者:西垣 晴次
飲酒と法律
日本の社会は伝統的に,飲酒あるいは酩酊(めいてい)中の行為に対して寛容だといえよう。しかし,法律上は,飲酒について種々の規制が加えられている。〈酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律〉(1961公布。酩酊防止法と略称)の2条は,〈すべて国民は,飲酒を強要する等の悪習を排除し,飲酒についての節度を保つように努めなければならない〉と規定しており,同法は救護を必要とする酩酊者について,警察官による保護措置を定めると同時に,公共の場所または乗物において公衆に迷惑をかけるような言動をした酩酊者について,拘留または科料の罰則を定めている。
飲酒ととくに縁の深い法律として,道路交通法がある。同法65条は,〈何人も酒気を帯びて車両等を運転してはならない〉と定め,同時に,運転者に飲酒をすすめる行為をも禁止している。にもかかわらず,同条違反は,毎年の道路交通法違反事件中,速度超過に次いで多い件数を示すのが現状である。同条違反の罪は,酒酔運転の罪(道路交通法117条の2-1号)と酒気帯び運転の罪(119条1項7の2号)とに分かれるが,前者は,アルコールの影響により正常な運転ができないおそれがある状態での飲酒運転を意味し,その法定刑は2年以下の懲役または10万円以下の罰金である。後者は,いわゆるほろ酔運転を処罰するものであり,血液1mlにつき0.5mgまたは呼気1lにつき0.25mg以上のアルコールを保有する状態(道路交通法施行令44条の3)で車両の運転をした者につき,3月以下の懲役または5万円以下の罰金を定めている。さらに,飲酒運転の場合は,通常反則金の納付で処理される反則行為についても,その適用が除外される(125条2項3号)などきわめて厳しい取扱いがなされることに注意する必要がある。
酩酊も,その酔い方が異常なときは,場合によって刑事上の責任能力を喪失または減少させる場合がある。これを単純酩酊に対し異常酩酊と呼ぶが,異常酩酊はさらに量的な異常を伴う複雑酩酊と質的な異常を伴う病的酩酊とに区分される。一般に,前者は心神耗弱(刑法39条2項),後者は心神喪失(39条1項)にあたると解されている。もっとも,酩酊すると自己に以上のような習癖の現れることを知っている者が,酩酊中に犯した犯罪については,責任能力を認めてこれを処罰しうるとする〈原因において自由な行為〉の理論が有力となっており,判例にもこの理論の適用を認めるものが現れている。民事法上も,酩酊による心神喪失状態の間に行った不法行為(民法709条)については損害賠償責任が否定されている(民法713条)。このことは,契約等の法律行為についても同様であり,明文の規定はないが,酩酊による心神喪失状態においてなされた契約は,意思能力を欠くため当然に無効と解されている。
執筆者:西田 典之