翻訳|diplomacy
外交diplomacyの語源はギリシア語のdiploun(〈折りたたむ〉ことを意味する)に由来する。ローマ帝国時代,すべての通行券,帝国道路の旅券・運送状は二重の金属板に捺印され,折りたたまれていた。この金属旅券をdiplomaと呼んでいたことから,のちに広く〈公文書〉をdiplomaと呼ぶようになった。それが〈外交〉の意味で用いられたのは,イギリスではE.バークによって1796年に使われたのが最初であるといわれる。なお日本における〈外交〉という語は必ずしもdiplomacyの訳語ではなく,幕末・維新当時に使われていた〈外国交際〉〈外国の事〉〈外国事務〉などという語が略されて〈外交〉〈外務〉となったのである。
現在一般的に用いられている外交とは,国際関係を交渉によって処理することである(《オックスフォード英語辞典》)。つまりディプロマシーdiplomacyという意味での外交とは,交渉という点に重点があり,戦争とか,宣伝とか,経済手段などとともに,国家が対外目的を達成するために行使する手段のひとつである。しかしながら外交はしばしば外交政策foreign policyの意味で使用され,理解される。たとえば,〈日本の対米外交〉というように表現された場合である。ニコルソンH.Nicolson(1886-1968)は《外交》(1963)の中で,外交と外交政策とがしばしば混同して使用されている点に注意を喚起し,交渉としての外交に限定して論議を進めるが,ここでは外交政策についても若干触れることにする。
交渉としての外交は,人類社会とともに長い歴史をもつが,今日見られるような職業外交官や外交の慣行・儀礼,またその行動の規範となる国際法が出現したのは,中世の終りのイタリアの都市国家においてであるといわれる。しかし華々しく外交が開花したのは,16世紀から18世紀にかけての絶対主義王朝期の西欧においてであり,そこではロマンに満ち,陰謀の渦巻く〈宮廷外交〉がくりひろげられた。この当時,国家の対外政策の目的とは,国王の版図の拡大であり,国王の財源の増大であり,国王の栄光の発揮であった。外交官はこの目的の実現に奉仕すべき臣下であり,全権大使とは他国にあって国王を代理して交渉の任にあたるものとされたのである。〈宮廷外交〉の時代には,秘密外交方式は当然のこととされ,他国の国情のスパイから,宮廷内の反対派を籠絡(ろうらく)する陰謀工作や,軍事力の威嚇を用いる一方,賄賂や地位で誘う〈ムチとアメ〉の策略が使われるなど,多様な外交戦術が駆使された。大使は国王の代理者であるから,その任用には家柄・富・風采・社交術といった点が重視され,そのことは外交官一般の場合についてもいえた。したがって大使(外交官)の間の交際のエチケットはやかましく,席次などをめぐってしばしばもんちゃくがおき,そのため交際のルールとしての外交の儀典様式がしだいに形成され,とくに1815年のウィーン会議でいちおう確立される。宮廷外交の時代に,今日の外交の原型がつくられ,また人はとかく外交というと宮廷外交の華やかさをイメージする傾向が依然として残っているが,その後外交の態様は変化し,とくに第1次大戦後は〈新しい外交〉の時代が開幕する。〈新しい外交〉をもたらした要因の第一は,一般国民の国際問題への関心が増大し,国際関係の処理は一部の政治指導者や職業外交官,軍人のみに任せてはおけぬという風潮が生まれたためであろう。それはたとえば,〈公開外交〉ということで具体化される。交渉の結果成立した協定や条約の内容を国民に知らせることが一般化し,また他国との交渉に臨むにあたって,政府の基本的立場を国民に示し,その支持と理解がもとめられる。さらに〈公開外交〉の一形態として発達してきたのが〈会議外交〉である。
〈会議外交〉は古典的な外交が二国間外交として行われたのに対し,多数国間外交としての特徴をもつ。多くの国にまたがり,多くの国が利害関係をもつイシューが増大したことに対応して行われるようになった外交形態であるが,それはまた交通・通信技術の飛躍的進歩によって,頻繁な交流を可能にする条件があたえられたことにもよる。第1次大戦後の〈会議外交〉の典型的なものとして国際連盟での外交があったが,その他軍縮や経済問題をめぐる〈会議外交〉も行われた。
〈会議外交〉の量的増加は第2次大戦後めざましい。国際的相互依存性の高まり,情報空間の拡大といったことから,一国内に発生した事件の影響がたちまち他国に及び,また国際的協力なしには解決の難しい問題が膨大な数に達してきている。多数の国の代表が一堂に会して,問題の解決をもとめて討議しあう場が非常に増えてきたのである。極端にいえば,今日では世界のどこかで〈会議外交〉の行われない日は一日もないといってよいほどである。国際連合,あるいは専門機関その他傘下にある機関を通じての〈会議外交〉が代表的であるが,それ以外にもIMF,GATT(ガツト),OECDといった場での経済外交が常設的な〈会議外交〉として行われている。各国の最高の政治指導者が一堂に参集して,〈会議外交〉を行うこともあるが,その場合には〈首脳会談〉とも呼ばれる。〈会議外交〉は外交の展開の内容を一般国民に伝え,各国の立場や主張の違いを浮彫りにし,また時に多数決方式の採用で問題に解決をもたらす利点がある反面,伝統的な外交形態のもつ弾力性に欠け,とかく妥協を排するきらいがある。〈会議外交〉に臨む各国の代表者は自国の主張の唱道や,立場の弁明に終始しがちで,妥協性に乏しくなり,会議は外交の場というよりは討論の場に陥りやすい。さらには会議は宣伝の場となり,また国内政治を意識した演壇と化する。国際的に討議され,解決がもとめられる問題が多様化し,専門化したことも,〈会議外交〉の数の増大をもたらし,職業外交官以外の専門家や政治家の〈会議外交〉への参加の拡大をもたらしている。外交についてはいわば素人の人たちが,政府間レベルの〈会議外交〉にしだいに数多く参加するとともに,民間レベルでの〈会議外交〉もおびただしい数で行われている。
ところで,外交とは交渉によって何らかの妥協点を発見しようとする政策手段であり,できるだけ自国に有利な点で妥協をもとめることを意図する。その場合,外交を展開する技術にはさまざまのタイプがある。第1には,合理的な説得のやり方であり,相手国の理性に訴えて,自国の立場の合法性,正当性を主張し,相手側の譲歩を誘い,妥協をもとめる方法である。第2には,相手側の損得の判断に訴え,あるいは報酬を提供し,あるいは処罰をちらつかせて,取引という形で相手側の合意を獲得する方法である。外交の術としては,最も典型的なものであり,外交は通常自国に有利な取引をもとめる虚々実々のかけひきとして展開される。第3には,威嚇を通じて,また物理的強制力の無言の威圧を通じて相手側の譲歩をもとめる方法である。力の強い側は弱い側に対してしばしばこのやり方を行使する。〈砲艦外交〉はその典型的なもので,第2次大戦前に列強は揚子江上に砲艦を遊弋(ゆうよく)させ,その武力のにらみで中国側の要求を押さえこみ,また自国の居留民や経済権益の保護をはかっていた。しかしこうなると,外交と軍事力行使は政策手段として紙一重となる。日本は幕末期,ペリー提督の率いるアメリカ艦隊の示威効果のもとに開国を強いられ,交渉で日米和親条約を締結し,つづいて不平等な実質をもつ通商航海条約を米欧各国との間で次々に結んでいくが,これらも〈砲艦外交〉の圧力のもとに,日本が譲歩を強いられていった例といえる。しかし明治になると,日本は〈砲艦外交〉のやり方を早速とりいれ,韓国に対して開国を強要することとなる。
外交はしょせん交渉によって妥協点を見いだすことであるから,硬直した態度に終始して,まとまりうる交渉を決裂せしめたり,必要以上に相手側に譲歩したり,また安易に軍事力をふりかざす強圧外交を進めるのは外交下手というべきであろう。外交の巧拙は,交渉を指導し,これに従事する者のかけひきの術に依存するのみならず,彼らの,彼我の相対的力量を冷静に測定し,交渉をめぐる国際・国内環境を現実的に把握し,大局を見すえて緻密に駒を進める能力に依存する。
〈グランド・ストラテジーgrand-strategy〉をもって,外交を進めることも成功の要諦であろう。最近においては,アメリカのキッシンジャー外交を,〈グランド・ストラテジー〉にもとづき,見事な成功をおさめた例としてあげることができる。ベトナム戦争の収拾,中ソとの緊張緩和,中東和平の展開といった問題を包摂する,大きな外交戦略構想をもち,外交的布石を次々に打っていった。彼はまたベトナム戦争の収拾の目標を達成するために,まず米中和解を実現し(上海共同コミュニケ,1972年2月),ついでソ連とSALT(ソールト)協定を結んで(1972年5月)米ソのデタント(緊張緩和)を進め,このようにアメリカの外交的立場を有利にしておいて,ベトナムとの和平協定の締結を導きだした(1973年1月)。それは〈迂回外交〉ということもできる。
太平洋戦争前の日本の外相松岡洋右も〈グランド・ストラテジー〉を狙い,〈迂回外交〉の実践者であった。すなわち,彼は四大国を中心として,世界の政治秩序を再構成する夢をもち,またドイツ,イタリアと軍事同盟を結び,ソビエトと中立条約という形で提携を進めることにより,アメリカに対する日本の立場を強化し,アメリカの了解をとりつけうるものと構想した。そして1941年春,〈迂回外交〉の実行にみずからのりだしたのである。しかし彼の場合,彼我の力量の測定も甘く,情勢認識は現実性に乏しく,その外交は蹉跌(さてつ)に終わり,むしろ日米武力衝突への流れを一段と強める結果を生んだのである。
外交と区別された外交政策foreign policyについて若干を記すと,外交政策が追求する目標価値によって,〈経済外交〉〈文化外交〉といったことばが使われる。〈経済外交〉とは,国家の対外政策目標として,貿易の拡大や市場・資源の確保といった経済価値を重視するものであり,日本の戦後外交はまさに〈経済外交〉の名に値する。〈経済外交〉というときには,政策目標として経済価値を重視する外交政策を指すだけでなく,政策遂行の手段面で,たとえば経済援助,貿易や投資の増大といった経済手段に依存して,影響力の浸透や自国のイメージ・アップをはかるといった外交政策を意味することも多い。政策の遂行手段として軍事力を欠いた戦後日本外交の場合,この点でも〈経済外交〉の性格をもち,戦前の外交がとかく軍事力にたよることが多かったのに対し,明らかな差異を示す。
政策目標として,文化価値が追求される場合,それを〈文化外交〉という。自国のすぐれた文化を外国に伝播(でんぱ)しようとする意欲の強い外交である。フランスは伝統的に〈文化外交〉を重視し,フランス文化圏をつくることに熱心であるが,戦後のアメリカはアメリカ的生活様式やアメリカ的民主主義の価値観を国外に普及することに熱意をもち,〈文化外交〉に力を注いできたといえる。それが進んでアメリカ的民主主義の福音を宣布しようとする姿勢が強まると,〈宣教外交〉ということになる。さらに自国の政治・社会体制を絶対視し,その政治イデオロギーを他国に輸出し,教化しようということになると〈革命外交〉の様相を帯びてくる。
〈文化外交〉は対外政策の遂行手段として,文化的手段を活用する場合にも使われる。むしろこの意味で使用されることが多いともいえる。民間レベルで各界の人的交流を活発にし,自国に対する外国の理解度を高め,さらに自国への良いイメージをつくるといったいき方である(民間外交)。このためには自国のもつすぐれた伝統文化の国外への紹介が試みられ,スポーツ使節団が国外に派遣される。さらにいうと,二国間の関係が良好でない場合,スポーツや学術面での文化交流にはじまって,交流が経済やさらに政治の次元にまで波及していくといった場合もしばしばみられる。米中関係の正常化にさいして,1971年春の〈ピンポン外交〉が一役買ったこともよく知られている。
外交政策は国によってさまざまであり,時代によっても様相を異にする。まず歴史的にみると,19世紀から20世紀にかけての〈帝国主義の時代〉においては,大国が後進地域に向けて,時に軍事力を使っても,発展・膨張をはかることを当然視する風潮があり,大国にとってその膨張政策のために払うコストや冒すリスクは,獲得する利益に比して相対的に少ないという機会が多く存在した。しかし,第2次大戦後の世界においては,この状況は大きく変わり,このような機会は減少し,大国があえて大戦争の危険を冒してまで,膨張政策にのりだす機会はほとんどなくなったといってよい。このような状況の出現には,兵器体系の革命的変化,とくに核兵器の登場が大きく関係している。一国の外交政策のあり方は,また国内政治情勢とも関連する。国内政治が不安定であったり,国民の政治権力への不満が強かったりすると,政府は国民の目を国外に転化させるために,対外的な冒険政策,強硬政策あるいは武力政策に訴えることがおきる。1960年前半のインドネシアの対マレーシア対決政策や,82年のフォークランド戦争におけるアルゼンチンの政策が好例である。国内政治面での権力闘争も,その国の対外政策のあり方に係り合いをもつ。たとえば,1960年代の中華人民共和国の外交政策にその例をみることができる。
その他,外交政策を規定する要因として,その国のもつ地政学的条件や歴史的経験,天然資源の有無といったさまざまなものをあげることができる。ロシアは地政学的条件に影響されて,伝統的に南に向かって膨張する傾向があるといった議論がよくなされるし,天然資源に乏しく,島国の位置にあって,もっぱら人間と工業力と技術力にたよって国の生存と発展をはからねばならない国として,日本にとって貿易立国は不可避の選択であるとされる。さらにいうと,外交政策の形成にあたっては政治の最高指導者の価値観,判断力といった資質やあるいは政府指導者を補佐する官僚機構のあり方や官僚の質が関係してくる。当面する外交課題いかんによっては,官僚機構内部での省庁間の権限・利益・見方をめぐる争いや合従(がつしよう)連衡の展開などが,政策決定のありように影響をあたえてくる。外交政策決定の過程を微視的に分析・解明する研究方法として〈対外政策決定過程論〉という分野が近年発達してきたが,このような官僚機構内部の対立・抗争・提携に着目して,決定過程を究明しようとする分析枠組みについて〈官僚政治モデル(BPモデル)〉といった名称があたえられている。
→外交官 →世界政治
執筆者:細谷 千博
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
外交ということばは日常的にさまざまな意味で用いられる。外国との交際あるいは交渉、ある団体の外部に対する働きかけ、さらに会社などで外部へ出て訪問することなどを意味する。しかし、一般的には国家と国家の交渉関係をさしており、ここではこの意味に用いる。英語で外交ということばはdiplomacy(折り畳むという原義から文書を意味した)であり、diplomacyが外交の意味に用いられたのは18世紀のイギリスにおいてであるといわれる。日本語で外交とは、外国交際という幕末に用いられたことばの略であるが、単に外国との交渉をさすだけでなく、広く対外政策全体を指示する場合が多い。
戦争は対外政策の一部であるけれども外交ではない。戦争は国家間の争点を武力によって解決しようとするものであり、外交はたてまえとして平和的に解決しようとするものである。外交には、対外「政策」を決定する面と、決定された政策を相手国との「交渉」によって実現する面との両面がある。この両面は論理的に区別されるべきであるが、しかし、実際においてはこの両面は密接に融合しており、外交とは両面の統一であるというべきである。
[斉藤 孝]
昔、人間が家族・氏族・村落などの原始的集団において生活していたころ、他の集団・集団員に向けられるものは、恐怖と敵視であったらしい。他の集団の人間を危険視したり、不浄視したりしていたこのような未開の時代に、なんらかの取引のために使者が往来し、しかもこの使者が殺されることもなく、なんらかの特権を認められたとき、外交の発生をみることができるであろう。考古学によって知られるもっとも古い条約は、メソポタミアで発掘された紀元前3000年ごろのものと推定されている石文である。これは、都市国家ラガシュと隣の都市国家ウンマとの間に結ばれた国境紛争に関するものである。近代の外交関係や国際法に類似したものは、古代インドや古代中国あるいは古代ギリシアなどにもみられた。しかし、世界の国際関係における外交関係および国際法は、その起源をわずか数百年前の西ヨーロッパにもつものである。すなわち、ルネサンス期の北イタリアでおこった外交慣習がヨーロッパ諸国に取り入れられ、それがしだいに広まってヨーロッパ以外の国々にも伝えられたのである。たとえば、大使ambassador、特命extraordinary、全権plenipotentiaryなどの名称は、16~17世紀に用いられたのとほぼ同様の意味で用いられている。15世紀にイタリアには常駐の外交使節が置かれ、この慣行がヨーロッパの国々にも伝播(でんぱ)していった。
[斉藤 孝]
ここに開幕したヨーロッパの絶対主義諸国の外交関係の実態は、君主相互の関係であった。国家と国民は君主の財産とみられ、対外関係は王朝の利害の問題に関するものであった。対外政策の決定は君主あるいはその代理者の手に握られており、外交使節は相手国の国情を探るとともに、相手国の君主を自国に有利な方向に動かすことをおもな任務としていた。外交の舞台は宮廷であり、その技術は個人的な好感の獲得や誘惑あるいは買収であった。君主や寵妃(ちょうき)の歓心を買うことが必要とされたために幇間(ほうかん)タイプの人物が外交使節として登用されることも珍しくなかった。この宮廷外交が打破されたのはアメリカ合衆国の独立とフランス革命によってであり、ウィーン会議(1814~15)は宮廷外交の最後の華やかな一幕であった。なお、このウィーン会議およびエクス・ラ・シャペル会議(1818)において外交使節の階級および席次が定められた。
19世紀において、通商条約などが結ばれたが、これは、外交が王朝的利害を脱して、近代資本主義の利害に基づくに至ったことを物語っている。議会政治が他の国に先駆けて発達したイギリスでは、Blue BookやWhite Papersとよばれる政府の対外関係資料が出され、アメリカでも対外関係資料集が出されていた。外交はしだいに官僚がその担い手となり、外務省が専門的に処理するようになった。さらに、19世紀の後半になると、ヨーロッパの列強は相次いで帝国主義政策をとり、各国間に秘密外交も行われ、とくに第一次世界大戦前および大戦中には多くの秘密条約が結ばれた。外交に対する国民の関心が高まり、国民の発言権が認められるようになったのは、第一次世界大戦以降のことであり、いわゆる「旧外交」から「新外交」への移行ののちである。
[斉藤 孝]
ロシア革命直後のソビエト政権は、イギリス・フランス・イタリア・帝政ロシア間の領土分割に関する秘密条約を暴露した。続いてアメリカ大統領ウィルソンは第一次世界大戦後の講和の方針として「十四か条」を掲げた。これらによって秘密外交に対する公開外交が新外交の合いことばとなった。第一次世界大戦の惨禍は各国の国民に国際問題に対する関心を高め、国内体制の民主化とともに対外政策の民主化が要求されるようになった。この点において、アメリカの制度(開戦の布告は連邦議会の権限であり、条約の批准には上院の3分の2以上の賛成が必要である)は対外政策の民主的統制として模範視された。この規定によってウィルソン自らが結んだベルサイユ講和条約をアメリカ上院は批准を拒否したのであった。新外交が課題としたのは、第一次世界大戦における秘密条約にみられたような領土拡張主義と権力政治の否定であった。国際連盟の創設はその目的のために役にたつはずであったが、連盟自体がアメリカの不参加および日本、ドイツ、イタリアなどの脱退によって機能不全に陥り、結局これらの枢軸国の露骨な侵略主義を阻止しえず、世界はふたたび大戦に突入したのであった。第二次世界大戦後、国際連合が創設され、国際連盟の失敗の経験を生かして世界的な普遍的機構として発展し、会議外交の舞台となっている。現在の外交は諸国相互間とともに、国際連合はじめ国際機構を通じても行われている。
[斉藤 孝]
一国の対外政策は、国家を代表して行動する個人あるいは集団によって策定される。この政策決定者というものがとくに外交においては重要な意味をもっている。というのは、今日の国際社会においては各国の政府だけが外交交渉の権限をもっているからである。1980年代以降の特徴として、非政府組織(NGO)の国際的発展があり、民間外交の発展がみられる。しかし、権力を独占しているのは政府であり、また政府が国際問題に関する情報をもっともよく集めうるのであり、外交は政府の仕事となっているというべきであろう。対外政策決定について、もっとも重要な役割を果たすのは政府の長であり、普通の場合は首相がそうである。アメリカやフランス第五共和政の場合には大統領が政府の長である。政府の長の下でもっぱら外交問題にあたるのが外務大臣(アメリカの場合は国務長官)である。ソ連はじめ社会主義国では、外交政策の実権を握るのは、政府の長ではなく共産党の政治局を支配する者であった。外務省は、西側の諸国の場合、政策の決定に重要な役割をもっている。一般に、このような政府機構は政策の執行にあたるのであるが、現代世界においてはとくに外交政策は高度に専門化されており、政府の長が外交政策について意見をもたない場合、あるいは政府が頻繁に交替する場合など、外務官僚が政策の策定にあたることがある。宮廷外交の時代には君主の代表としての外交使節の判断が重要視されたが、近代官僚制度の整備と交通・通信の手段の発達によって外交使節の役割は相対的に低下し、本国政府とくに外務省の果たす役割のほうに比重がかかるようになった。現代の外務省は外交使節を統括して外交政策の執行にあたるほか、外交政策の決定に関して重要な地位を占めている。このほか、外務省以外の政府機関が政策の決定に対して重要な役割を演ずる場合がある。たとえば太平洋戦争に至る過程の日本の軍部や第一次世界大戦前のドイツ軍部の行動がそれである。
[斉藤 孝]
議会が対外政策について積極的に発言するようになったのは、第一次世界大戦以降のことである。対外政策について議会の権能を明確に規定したのはアメリカであり、他の国々の議会の権限については国によってさまざまである。しかし、議会は対外政策を自主的に形成できないことが多く、政府の提案に対して拒否するか否かという立場に置かれることが多い。政府の結んだ条約に対して批准を拒否する場合がそのよい例である。外交政策に関する世論も議会と同様に消極的な役割しか果たしえない。不十分な情報と感情的な興奮によって、政府の世論操作にのせられやすいのである。諸政党やさまざまな団体は世論を吸収し、また世論を指導して政府に反対あるいは協力の態度をとる。
[斉藤 孝]
外交政策が国際環境に対して適合的であるか否かは、情報が的確に把握できているかによる。ところで、いかに情報の質が優れ、情報の量が多くとも、その情報は政策決定者のイメージによってフィルターにかけられる。いわば政策決定者はだれでもバイアス(特定の傾向)があるのであり、そのバイアスが客観的現実をゆがめる度合いによって外交政策は健全あるいは不健全なものとなる。そのようなバイアスは、決定者の民族・社会的階層・宗教的信仰・イデオロギー・世代・教育などの諸種の要素によって決定されるものである。たとえば、軍国主義日本の指導者はアメリカ人の抵抗力について観察を誤ったが、それは、日本軍部の偏狭な教育に基づく国家主義的イデオロギーによるものである。第二次世界大戦前のイギリスの指導者はヒトラーの思考について誤った前提から出発していた。冷戦時代のアメリカやソ連の政策決定者は相互に敵対的とみるイメージをもっていた。このようなイメージから相互に誤解をなくすために国際交流や平和教育が必要になるのである。今日、世界を核戦争の破滅に導かないために外交の任務は国民教育にも及んでいるのである。
[斉藤 孝]
外交の目的として、交渉や情報収集のほかに、外交的儀礼、対外宣伝、在留自国民の保護などがある。現在の国際情勢においては、外交そのものがきわめて多面的になっており、外務省はほかの省庁との協力を仰がざるをえなくなっている。たとえば、貿易摩擦の問題のように経済問題が国際問題として重要なものになっている。それに、国際連合はじめ諸種の国際会議が外交の主要な舞台となっており、2国間の協議というような従来の方式とは異なった発展がある。首脳会談が頻繁に行われることも最近の特徴であって、とくに西側では先進国サミット(頂上会談)のように定期的に行われるに至っている。1980年代末から1990年代にかけてはロシアのサミット参加やAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会談などがある。このような首脳間外交についてはその得失について両論がある。すなわち、政策の決定と執行とが即座に行われるという効果の面と、失敗すればただちに政府の責任となる面である。
今日、国家の数は190を超える。このような点では諸国民は横に対等に並んでいるといってもよいであろう。旧来の植民地のような垂直式の関係はたてまえとして認められなくなった。しかも、国境を越えた諸国民相互の交際はしだいに密接化しつつある。政府機関以外の民間諸機関の国際的連携も著しく進みつつある。外交は国家と国家との関係ではなくなりつつあるが、しかしなお、世界人類の生活は国家を単位として営まれており、世界平和の維持は国家間外交のおもな任務である。
[斉藤 孝]
『内山正熊著『現代外交論』(1971・有信堂高文社)』▽『坂野正高著『現代外交の分析』(1971・東京大学出版会)』▽『H・ニコルソン著、斎藤真・深谷満雄訳『外交』(1965・東京大学出版会)』▽『J・フランケル著、河合秀和訳『外交における政策決定』(1970・東京大学出版会)』▽『木村昌人・高杉忠明編著『パール・ハーバー50年――変容する国際社会と日米関係』(1991・東洋経済新報社)』▽『猪口孝著『現代日本外交――世紀末変動のなかで』(1993・筑摩書房)』▽『北岡伸一編・解説『戦後日本外交論集――講和論争から湾岸戦争まで』(1995・中央公論社)』▽『ゴードン・A・クレイグほか著、木村修三・高杉忠明ほか訳『軍事力と現代外交――歴史と論理で学ぶ平和の条件』(1997・有斐閣)』▽『真鍋俊二著『戦後日本外交論』(1999・関西大学出版部)』▽『坂本正弘・滝田賢治編著『現代アメリカ外交の研究』(1999・中央大学出版部)』▽『田久保忠衛ほか編著『日本外交の再点検――検証「吉田ドクトリン」』(2000・時事通信社)』
字通「外」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…17世紀のヨーロッパで主権国家体系state systemが形成されてからも,まだ国家間の関係とは主として王朝間の関係を意味する絶対王政の時代が続いた。19世紀になり,民族国家が一般化するにつれ,国内で国民の政治的統合が進む反面,国家間の関係は,伝統的な外交diplomacyという観念とともに,対外関係foreign relations,対外問題foreign affairs,external affairsといった言葉で表されるのが通例となった。この場合の特徴は,(1)個別の国家の視点から,各国にとって外的な条件として国家間関係をとらえること,(2)したがって外交や対外関係は国内政治とは切り離された別の次元に属し,〈政争は波打際で終わる〉のが原則とされたことである。…
※「外交」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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