ヨーロッパの国際問題に関与せず,同盟関係の設定や国際機構への参加を拒否するアメリカの伝統的外交政策をいう。またヨーロッパ大陸諸国と同盟を結ばず,大陸における情勢がイギリスの安全を脅かすと思われる場合のみ大陸の問題に介入するというイギリスの政策を指していうこともある。
アメリカの孤立主義は,ヨーロッパの紛争にまきこまれることなく,平和を享受したいというアメリカ人の願望を表すものである。その願望はアメリカ独立のときから存在したが,独立革命の戦略は,英仏の対立関係を利用してフランスの援助を受けつつ独立を達成しようとするものであったから,フランスとの同盟を結ばざるをえなかった。しかしどこの国とも面倒なかかわり合いになるような同盟を結ばず,ヨーロッパの国際問題にまきこまれることを避けるという外交方針は,ワシントン,ジェファソンら建国期の指導者によって強調された。孤立の政策は新興国アメリカにとって現実的な政策であったが,またそれはアメリカ人のナショナリズムの表現でもあった。彼らは専制政治,君主政治のヨーロッパ諸国に対して自由な市民の共和国としての自国の特色を誇りとし,そこにナショナリズムの拠り所を見いだした。ヨーロッパの邪悪な宮廷外交は共和国とは無縁のものであり,それにかかわることは共和国の徳性を損なうと考えられた。こうしてヨーロッパに対する孤立政策はアメリカ外交の伝統として確立し,アメリカがヨーロッパに影響を及ぼしうる大国になってからも,孤立主義は存続した。ただし孤立主義の時代にも,ラテン・アメリカに対するアメリカ外交は積極的であったし,東アジアの国際政治にもある程度関与するようになっていた。第1次大戦に際して,アメリカはヨーロッパの戦争に加わり,戦争終結と講和とに重要な役割を果たしたが,孤立主義を恒久的に放棄しようとしたウィルソン大統領の政策は,結局議会の承認を得られず,アメリカは国際連盟に参加しなかった。1930年代の国際政治の混乱はアメリカ人の孤立主義の感情を強め,それは35年以降,一連の中立法に具体化された。しかし第2次大戦が勃発し,とくにフランスが敗北してからは,孤立主義は弱まり,日本のハワイ攻撃と独伊の対米宣戦を契機に参戦してからは,アメリカ人は孤立主義が平和をもたらさなかったと悟り,孤立主義を放棄した。国際連合への加盟が世論により圧倒的な支持を受けたことはそれを物語る。また冷戦の時代には,アメリカはヨーロッパやアジアの国々と長期的同盟を結び,その点でも孤立主義の伝統は放棄された。
イギリスはその地理的位置のゆえに,アメリカとは次元が異なるとしても,海に守られた安全性を有し,大陸の問題へのかかわりを限定することができた。ウィーン体制成立後,イギリスは一時,フランス,プロイセン,オーストリア,ロシアと密接な関係をもったが,1822年以降,その関係から離脱し,〈光栄ある孤立〉と称するようになる。世界最強の海軍を擁し,海外での勢力拡張につとめた。しかし20世紀初頭,ドイツがヨーロッパにおける勢力均衡を脅かし,しかも海軍力を積極的に強化するに及び,イギリスは対抗上フランス,ロシアに接近した。
アメリカはヨーロッパ大陸諸国間で勢力均衡が保たれ,あるいはイギリスがヨーロッパの勢力均衡の保持者としての役割を果たしている間は,ヨーロッパに対する孤立不介入の立場を保持することができたといえる。ヨーロッパの国際関係の自律性が崩れたとき,アメリカはヨーロッパに介入せざるをえなくなったのである。孤立主義には介入を避けるという意味での消極主義と,同盟その他の国際的拘束を避けて行動の自由を保持するという単独主義という二つの面があり,単独主義は必ずしも消極的行動を意味しない。イギリスもアメリカも一方では消極主義をとりつつ,前者はヨーロッパ以外の地域での,後者はアメリカ大陸での勢力拡張を追求したのである。
→モンロー主義
執筆者:有賀 貞
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他国との同盟や国際組織への加入に反対したり、海外の紛争に巻き込まれるのを避け、孤立を保とうとする外交政策や対外認識面での主義。通常アメリカ合衆国におけるそうした立場をさす。
アメリカは、両大洋に挟まれているという地理的条件によって安全が保障されている面が強く、他方で国民の大部分がヨーロッパ各地からの移民、ないしその子孫によって構成されているといった事情により、とくにヨーロッパの国際紛争には介入しにくい状態にあるため、建国当初から孤立主義的傾向が強かった。早くも1793年、初代大統領ワシントンは、フランス革命により引き起こされたヨーロッパの紛争に対して中立を宣言し、ついで1796年の「告別演説」において、アメリカの場合海外の紛争への介入を回避することが、内部の分裂を防ぎながら国家を発展させるうえで肝要かつ可能であると訴えた。1823年に宣言されたモンロー主義においても、南北アメリカとヨーロッパとの間の相互不介入が主張され、その論拠として共和制と専制という両者の体制の相違が強調された。19世紀末までアメリカの発展がおもに大陸における領土的膨張を基盤としていたため、こうした相互不介入は対外政策の基調となったが、他方、経済的、文化的あるいは移民の流入などの面では、アメリカがヨーロッパときわめて緊密な関係にあったことを見逃してはならない。第一次世界大戦にはついに参戦するに至ったが、ベルサイユ条約の内容に幻滅してウィルソン大統領が提案した国際連盟への加入も拒否するなど孤立主義の風潮がふたたび強まり、1930年代には一連の中立法の制定をみた。だが第二次世界大戦を契機に孤立主義は衰退し、封じ込め政策の下にグローバルな規模で反共軍事同盟網が形成された。孤立主義は地理的には内陸の中西部において比較的強く、国粋的な右翼勢力と結び付いたこともあった。ベトナム戦争での挫折(ざせつ)により、一時的に対外介入政策に慎重となったが、孤立主義に戻ることはなく、逆に「冷戦の終焉(しゅうえん)」後グローバリズム的立場がいっそう強まった。21世紀に入り対テロ戦争やイラク戦争で単独行動主義的動きが強まったが、これは一国覇権的状況の問題で、孤立主義とはまったく異なるのはいうまでもない。
[新川健三郎]
『斎藤真著『アメリカ政治外交史』(1975・東京大学出版会)』▽『有賀貞・宮里政玄編『概説アメリカ外交史――政治・経済・軍事戦略の変遷』(1983・有斐閣選書)』▽『ウィリアム・アプルマン・ウィリアムズ著、高橋章・松田武・有賀貞訳『アメリカ外交の悲劇』(1991・御茶の水書房)』▽『本橋正著『アメリカ外交史概説』(1993・東京大学出版会)』▽『佐々木卓也編『戦後アメリカ外交史』(2002・有斐閣アルマ)』▽『中嶋啓雄著『モンロー・ドクトリンとアメリカ外交の基盤』(2002・ミネルヴァ書房)』
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国際問題に関与することなく,非同盟,中立と行動の自由(単独主義)を維持するアメリカ外交の伝統をいう。初代大統領ワシントンの告別演説(1796年),モンロー宣言(1823年)で公式化された。ただし対象はヨーロッパであり,西半球や東アジア,太平洋においてはむしろ干渉的・膨張的であった。第一次世界大戦参戦を契機に,国際主義的な外交への転換を試みたウィルソン大統領の政策は,議会による国際連盟加入の拒否で挫折した。1930年代になると,大不況と国際紛争の多発を背景に孤立主義の高揚があったが,第二次世界大戦への参戦,そして冷戦における世界的規模での反共軍事同盟の構築により,孤立主義は放棄された。だが冷戦の終焉とともに,単独主義的な外交行動が顕在化している。
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…さらには,〈自由〉という言葉自体,あるいは教科書などに書かれた〈アメリカ史〉なども統合の象徴的機能をもつ。 アメリカ合衆国は,建国期より19世紀末まではアメリカ大陸に発展することに専心し,広く国際政治に介入することを控え,孤立主義的であった。19世紀末,米西戦争を契機に世界列強となった合衆国は,第1次大戦,第2次大戦を経て超大国となり,政治,軍事,経済,文化の面で決定的な発言権をもち,〈全能のアメリカ〉が意識されるようになった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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