世界大百科事典(旧版)内のŚmiałyの言及
【ポーランド】より
…また荒廃したグニェズノは放棄され,以後ポーランドの君主は,クラクフにその居を定めることになった。 王位はその子ボレスワフ2世豪気王Bolesław II Szczodry(Śmiały。1042ころ‐81)がドイツ国王ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の叙任権闘争に乗じて回復するが(1076),聖スタニスワフ事件(スタニスワフ)にみられるようにすでに豪族の台頭が著しく,豪気王は弟のブワジスワフ・ヘルマンWładysław Herman(1043ころ‐1102)を擁立したシェチェフSieciech(11世紀中ごろ~12世紀初め)によって追放されてしまった(1079)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」