《政治学大綱》(読み)せいじがくたいこう

世界大百科事典(旧版)内の《政治学大綱》の言及

【小野塚喜平次】より

…1897‐1901年ヨーロッパに留学,帰朝後,母校で日本最初の政治学講座の専任教授となる。《政治学大綱》(1903)において,政治学とは〈国家ノ事実的説明ヲアタヘ其政策ノ基礎ヲ論スル学〉であると規定し,国家学からの独立を宣した。03年,対露強硬外交の意見書を桂太郎首相に提出したことによって起こった,七博士建白事件では〈大学の独立と研究の自由〉を守るべく抗議した。…

【ラスキ】より

…ラスキは多元的国家論者として,国家は教会や労働組合などの団体とまったく異ならないとした。しかし同時に,国家は調整役として社会の〈かなめ〉にあるとした点で修正多元国家論者とされた(《政治学大綱》,1925)。その後,ファシズムの台頭にともなってマルクス主義に接近し,計画経済のうえに立った民主主義(計画的民主主義)の実現を主張した(《現代革命の考察》,1943)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」