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…母は左大臣阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の娘小足媛(おたらしひめ)で,有間の名は父の皇子時代,有間の湯(有馬温泉)にいたおりに生まれたことによるらしい。父帝孝徳は大化改新時に即位したが,政治的実権を握るのは皇太子の中大兄(なかのおおえ)皇子(のちの天智天皇)であり,天皇との間に軋轢(あつれき)も生じていた。653年難波京から大和への遷都が天皇の意に反し中大兄によって行われたのはその一例であり,ために孝徳は翌年旧都難波において横死ともいえる死をとげた。…
…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。…
…天皇の在位しないとき,皇族が天皇に代わって政治を執ることをいう。古来,称制の事例は,清寧天皇の没後に億計(おけ)(仁賢天皇),弘計(おけ)(顕宗天皇)両皇子が互いに辞譲して皇位につかなかった間,姉の飯豊青(いいとよあお)皇女が政務を執ったのを初例とし,ついで斉明天皇の没後,皇太子中大兄皇子が3年間称制した例,天武天皇の没後,皇后鸕野讃良(うののさらら)媛(持統天皇)が同じく3年間政務を執った例の3例がある。ところで《日本書紀》によると,仲哀天皇没後,応神天皇のまだ即位しない間,神功皇后が政務を執ったのを摂政とするが,摂政は天皇の在位しているときに,皇族等が天皇に代わって政治を執るのをいうことからすると,神功皇后の統治形態は摂政よりも称制に当たる。…
…すなわち推古天皇の死後,大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)は反対派を制圧して舒明天皇を立てたものの,舒明死後には問題が再燃し,しばらく舒明皇后の皇極天皇が立てられている間に,蝦夷の子入鹿(いるか)は643年(皇極2),聖徳太子の子で皇位継承の有力な候補だった山背大兄(やましろのおおえ)王を急襲して自殺させ,朝廷内部の緊張はいちだんと高まった。
[経過]
舒明と皇極の間に生まれた中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は,同志の中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)らとはかり,645年6月,宮中で入鹿を暗殺し,自邸に蝦夷を包囲して自殺させると,翌日には皇極の弟の孝徳天皇を立て,じぶんは皇太子として実権を掌握し,阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)を左大臣,蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣,中臣鎌子を内臣(ないしん),唐に留学した旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)や高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士(くにはかせ)として新政権を樹立,年号を制定して大化とした(乙巳(いつし)の変)。この新しい朝廷は翌7月,唐に抵抗している高句麗には友好関係の維持を,任那の旧領を新羅から奪った百済には任那の調をも要求するなど,朝鮮諸国に対する外交方針を明らかにした。…
…大化改新以後,律令体制成立期の政治を指導した。葛城(かつらぎ)皇子,また中大兄(なかのおおえ)皇子といった。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇)。…
※「中大兄皇子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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