精選版 日本国語大辞典 「天智天皇」の意味・読み・例文・類語
てんじ‐てんのう テンヂテンワウ【天智天皇】
てんち‐てんのう ‥テンワウ【天智天皇】
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626~671.12.3
在位668.1.3~671.12.3
「てんじ」とも。系譜上の第38代天皇。葛城皇子・天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と称する。舒明天皇の長子。母は宝皇女(皇極天皇)。異母兄の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子に対し,中大兄(なかのおおえ)皇子と通称される。中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子の政権打倒を図り,645年(大化元)これに成功した。事件後に即位した孝徳天皇のもとで大化の改新の諸政策を推進したが,653年(白雉4)天皇と対立し,皇極太上天皇・皇后間人(はしひと)皇女らと難波から飛鳥に戻った。孝徳の死後,斉明天皇が重祚(ちょうそ)すると皇太子として活躍。661年(斉明7)百済救援軍を率いた天皇が筑紫朝倉宮で没すると,皇太子のままで天皇としての政務を行った(称制)。663年(天智2),白村江(はくそんこう)で唐・新羅の連合軍に大敗すると,西日本の防御体制を強化した。また氏族政策(甲子の宣(かっしのせん)),冠位制の改定を行い,667年近江大津宮に遷都し,翌年即位した。670年には庚午年籍(こうごねんじゃく)を作って人民支配の基礎を固めた。近江令を制定したとも伝えられる。没後翌年の672年には,その子大友皇子と,天智の弟である大海人(おおあま)皇子(天武天皇)の間に壬申の乱がおこった。
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「天智天皇」のページをご覧ください。
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…陵は京都市山科区御陵上御廟野町にある。【直木 孝次郎】 天智天皇は歌人としては《万葉集》第1期に属す。649年妻を亡くしたとき,その悲しみを渡来系の詞人に代作させたり(《日本書紀》),近江宮廷に詩歌の雅宴を開いたりした(《懐風藻》《万葉集》)。…
…馬子についで蝦夷(えみし),さらに入鹿が大臣となるが,入鹿は有力な皇位継承候補の山背大兄王(聖徳太子の子)を襲って自殺させ,権力の独占を企てる。こうした蘇我氏独裁の危機が強まるなかで,唐に留学した人たちが帰国して東アジアの新しい動向が伝えられると,豪族の世襲職制と私地私民制を廃し,天皇を中心とした中国の唐のような官僚制的中央集権国家を形成しようとする動きが政界の一部に強まり,その中核となったのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)であった。2人は綿密に計画を練り,蘇我石川麻呂らを引き入れて,645年,飛鳥板蓋宮で入鹿を斬殺し,蝦夷も自邸に放火して自殺し,蘇我氏は滅んだ(乙巳の変(いつしのへん))。…
…干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。…
…滋賀県大津市に鎮座。天智天皇をまつる。明治末期より大津宮を営んだ天智天皇をゆかりの地にまつろうという運動が起こり,1938年官幣大社近江神宮の創建が決定,直ちに社殿の造営が始められ,40年11月7日鎮座祭が行われた。…
…すなわち推古天皇の死後,大臣蘇我蝦夷(そがのえみし)は反対派を制圧して舒明天皇を立てたものの,舒明死後には問題が再燃し,しばらく舒明皇后の皇極天皇が立てられている間に,蝦夷の子入鹿(いるか)は643年(皇極2),聖徳太子の子で皇位継承の有力な候補だった山背大兄(やましろのおおえ)王を急襲して自殺させ,朝廷内部の緊張はいちだんと高まった。
[経過]
舒明と皇極の間に生まれた中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は,同志の中臣鎌子(なかとみのかまこ)(後の藤原鎌足)らとはかり,645年6月,宮中で入鹿を暗殺し,自邸に蝦夷を包囲して自殺させると,翌日には皇極の弟の孝徳天皇を立て,じぶんは皇太子として実権を掌握し,阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)を左大臣,蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣,中臣鎌子を内臣(ないしん),唐に留学した旻(みん)(新漢人(いまきのあやひと)旻)や高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士(くにはかせ)として新政権を樹立,年号を制定して大化とした(乙巳(いつし)の変)。この新しい朝廷は翌7月,唐に抵抗している高句麗には友好関係の維持を,任那の旧領を新羅から奪った百済には任那の調をも要求するなど,朝鮮諸国に対する外交方針を明らかにした。…
…名は大海人(おおあま)皇子。舒明天皇の子,母は宝皇女(のちの皇極天皇),同母兄に中大兄皇子(天智天皇)がいる。生年は不明だが,天智より5歳年少の631年(舒明3)の生れとするのが通説。…
…《万葉集》に三山妻争いの歌がみえ,また,〈藤原宮の御井の歌〉には,藤原宮が三山の間に造営されたことが歌われている。【和田 萃】
[大和三山伝説]
《万葉集》巻一の中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)作の〈三山歌〉に,〈香具山は 畝傍を愛(お)しと 耳成と 相争ひき……〉とよまれ,また《播磨国風土記》揖保郡上岡の里条に,〈出雲の国の阿菩(あぼ)の大神,大倭(やまと)の国の畝火,香山,耳梨,三つの山相闘ふと聞かして,此を諫め止めむと欲(おもほ)して上り来ましし時……〉との説話が記されている。三山相闘の内容は妻争いであり,中大兄の歌は〈畝傍雄々しと……〉ともよまれ,さまざまな解釈が行われているが,男山である香具山が女山の畝傍をいとしく思い,もうひとつの男山である耳成と争ったと見るのが自然であろう。…
※「天智天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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