朝日日本歴史人物事典 「二山伯養」の解説
二山伯養
生年:元和9(1623)
江戸前期の儒者。名は義長,伯養は字。通称は孫三郎。時習堂と号す。石見(島根県)の人。年少の時江戸に出て,壮年豊後(大分県)岡藩主中川氏に仕えたが,間もなく辞し市井に過ごした。致仕後,道を求めて,初め仏教を好み,ついで王陽明の説を奉じたが,疑問を抱き朱子学に帰した。その変遷の成果として『朱王学弁』がある。その篤学慎行を,当時世間では中江藤樹に比したという。朱子の『文公家礼』にひたすら準拠し,平生在宅のときも礼服である裃を着けていたという。その妻三(省君)も学才があり,世間では夫婦ともに才学ある者として貝原益軒と並び称したという。牛込宗参寺に葬る。<参考文献>原念斎『先哲叢談』3巻
(沼田哲)
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