京極高氏(読み)きょうごく・たかうじ

朝日日本歴史人物事典 「京極高氏」の解説

京極高氏

没年:応安6/文中2.8.25(1373.9.12)
生年:永仁4(1296)
南北朝時代の守護大名。法名は導誉。佐々木宗氏の子,貞宗の猶子。京極氏は宇多源氏佐々木氏の一族で,鎌倉時代中期に本家の佐々木六角家と分家の佐々木京極家に分かれた。導誉は,初代氏信から数えて5代目に当たるが,同家の基盤を築いた人物として位置付けられている。家督を継いだのは,貞宗(3代目)の死去した嘉元2(1304)年5月以降で,まだ10歳にも満たない子供であった。それゆえ,後見人として父宗氏(4代目)が京極家をとりしきった。導誉が京極家累代に与えられた検非違使の職を得たのは,元亨2(1322)年27歳のときであった。嘉暦1(1326)年3月,鎌倉幕府執権北条高時の出家に同調して出家し,導誉を名乗った。実名の高氏よりこの法名のほうが有名である。 元弘の変(1331)に際しては鎌倉幕府の下で行動し,後醍醐天皇隠岐に流罪となったときには路次の警固にも当たっている。しかし幕府滅亡の1カ月ほど前には盟友足利尊氏らと共に討幕運動に参加,後醍醐天皇の建武新政に大きく寄与し,雑訴決断所寄人に抜擢された。その後は,尊氏の政権樹立に密接にかかわるようになる。建武3/延元1(1336)年6月から9月にかけて行われた京都総攻撃など一連の活躍により,若狭国(福井県)や近江国(滋賀県)の守護に補任され,その後も導誉の政治,経済,軍事的実力はいかんなく発揮された。幕府内談衆,出雲上総飛騨・摂津国守護や政所執事に任命され,延文1/正平11(1356)年までにあてがわれた所領は,総計38カ所にもおよんだ。その行動の「ばさら(当時流行した華美で型破りな風)」ぶりともあいまって,導誉はばさら大名の典型として位置付けられる。妙法院焼討ち事件や度を越した茶会,花見などはその一例であろう。香道,花道,歌にも大変秀で,「ばさら」であることは同時に文化の大きな担い手であることも意味した。<参考文献>林屋辰三郎『佐々木道誉』,宇野日出生「ばさら大名京極導誉」(『京都市歴史資料館紀要』10号)

(宇野日出生)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「京極高氏」の解説

京極高氏 きょうごく-たかうじ

佐々木高氏(ささき-たかうじ)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「京極高氏」の意味・わかりやすい解説

京極高氏
きょうごくたかうじ

佐々木高氏

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「京極高氏」の意味・わかりやすい解説

京極高氏
きょうごくたかうじ

佐々木道誉」のページをご覧ください。

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