朝日日本歴史人物事典 「山々亭有人」の解説
山々亭有人
生年:天保3.9(1832)
江戸最末期の戯作者。末期の人情本や合巻に活躍し,明治に入って新聞小説の主要作者のひとりとなる。本名は条野伝平。別号に採菊散人がある。江戸日本橋の地本問屋に生まれ,若年から文筆に志し,万延(1860~61)ごろから為永春水風の艶筆をふるって人情本を再興。一方で三遊亭円朝らと「粋狂連」を組織して三題噺の興隆に尽くし,明治に入っては仮名垣魯文と並んで旧戯作者の代表格と目され,やがて『東京日日新聞』や『やまと新聞』を創刊して,自ら採菊散人の名で,新聞の連載小説という新機軸を開いた。画家の鏑木清方は実子。<参考文献>興津要『転換期の文学―江戸から明治へ』
(中野三敏)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報