→谷文晁
…このころから精力的に旅をし,多くの文人墨客と交わって知己を得る。木村兼葭堂を知るのもこのころであり,やがて田能村竹田が文晁の門をたたき,亀田鵬斎や酒井抱一,市河米庵,菅茶山,立原翠軒,大田南畝(蜀山人)といった人たちとの交流がみられる。文晁は多作家ではあったが,なかでも寛政期(1789‐1801)には特に南宗,北宗(南宗画,北宗画)の両画風を合わせた静謐な作風が目をひき,一般に〈寛政文晁〉と呼ばれて,画業の中の一時代を画している。…
※「文晁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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