百日維新(読み)ひゃくにちいしん

世界大百科事典(旧版)内の百日維新の言及

【康有為】より

…これ以後,強学会など学会の名を借りた政治結社と雑誌出版により政治改革の必要を鼓吹した。97年,第5上書を行い,ロシア,日本に範をとって立憲君主制を国是とするよう求めたのが,光緒帝に認められ,翌年6月,〈明らかに国是を定める〉との上諭により〈変法〉が開始され,彼は光緒帝のブレーンとなって,いわゆる〈百日維新〉の改革プランをつぎつぎに立案した。しかし,その改革の方法があまりに急激だったために西太后ら保守派のクーデタにあい,わずか3ヵ月で鎮圧され,譚嗣同(たんしどう),康広仁(康有為の弟で大同訳書局を設立)ら6人は逮捕処刑された(戊戌六君子)。…

【戊戌変法】より

…干支で戊戌の年,すなわち1898年(光緒24)に起こった。戊戌維新とも呼ばれ,また100日あまりで失敗に終わったことから〈百日維新〉とも呼ばれる。変法とは,伝統的な政治制度を全面的に改革することであり,具体的には,日本の明治維新を模範にして君主専制から立憲君主制に改めることである。…

※「百日維新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む