…このころ,河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らの新傾向俳句運動に共鳴,11年に俳句雑誌《層雲》を創刊してその運動の一翼を担った。しかし,同誌に発表した評論〈昇る日を待つ間〉(1913)などで,新傾向から自由律への展開を示唆,碧梧桐らと分かれて,感動を自由なリズムで書きとめる自由律俳句のリーダーとなる。関東大震災前後には〈自然,自己,自由の三位一体境〉(《新俳句提唱》1922)を志向,その志向のもとで尾崎放哉(ほうさい),種田山頭火(たねださんとうか)らが活躍した。…
…一高を経て東京帝大法学部卒。中学時代から句作し,1916年に帝大の先輩荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の俳句雑誌《層雲》に参加,種田山頭火(たねださんとうか)とともに,心のリズムのままに書く自由律俳句の代表的俳人となった。放哉は,23年に社会も家庭も放棄し,京都の一灯園に入所,以後,各地で寺男を務め,25年には小豆島の南郷庵に落ち着くが,その遁世は,個人主義の充満した社会からの逃亡であり,また,無一文の生活において人間の本来的なあり方を希求することでもあった。…
…第2次世界大戦中は衰退し,戦後また主としてプロレタリア短歌系の歌人らによって自由律がおこなわれているが,その勢力は微弱である。【木俣 修】
[自由律俳句]
新傾向俳句が俳句の旧習を脱しようとしてあたらしい試みをしながらも,なお定型と季題を捨てきれなかったのを不満として,季題の拘束から離れ,自由な表現を試みたのが中塚一碧楼らで,俳誌《第一作》(1912)によってはじめてこれを試みた。これが自由律俳句運動のおこりで,1914年(大正3)には荻原井泉水が俳誌《層雲》でいっそう大胆な自由表現と季題無用論を唱えて加わり,さらに17年には河東碧梧桐も口語表現のさけがたいことを論じて運動に投じた。…
…46年6月復刊,現在に至る。当初は河東碧梧桐らの新傾向俳句に呼応,また,ドイツ文学を中心にした翻訳紹介に力を注いだが,1912年ごろから〈真実を求むる心〉(井泉水)のリズムをそのままに書きとめる自由律俳句を提唱,尾崎放哉,種田山頭火,野村朱鱗洞(1893‐1918)らが輩出した。昭和初期にはプロレタリア文学の影響下に,栗林一石路(1884‐1961),橋本夢道(1903‐74)らも出た。…
※「自由律俳句」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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