五・七・五の17音節を基本とする短詩型の文芸。「俳句」の名称は、1663年(寛文3)の定清(さだきよ)編『尾蠅(おばえ)集』に初出以来、江戸時代の俳書にときどき現れるが、いずれもただ、連歌(れんが)の句に対して俳諧(はいかい)の句、すなわち連句(れんく)の発句(ほっく)・付句(つけく)をさすにとどまっていた。ところが、連句が衰え、巻頭の発句だけが独立して制作、享受されるようになると、付句を予想した「発句」の名称は不都合となり、独立した発句を指示する用語として「俳句」の語が転用されるに至ったのである。1890年(明治23)の三上(みかみ)参次・高津鍬三郎(たかつくわさぶろう)共著『日本文学史』に、俳諧・俳文と並んで俳句の語がみえるが、固有の様式・詩性を意識してこの語を用いたのは、正岡子規(まさおかしき)が最初であろう。子規は、「芭蕉已後(ばしょういご)の俳諧は幽玄高尚なる者ありて、必ずしも滑稽(こっけい)の意を含まず」(『獺祭書屋(だっさいしょおく)俳話』増補再版)という理由から、滑稽を原義とする俳諧の名称を退けたが、芭蕉の発句にも俳意・俳情などとよばれるおかしみはあり、これを継承した近代俳句もまたおかしみから自由であることはできなかった。
俳句が俳諧の発句から継承したものに、季語(季題)と切字(きれじ)がある。時宜にかなうことを第一とする問答唱和からおこった連句は、発句に挨拶(あいさつ)の機能を与えた。「客発句とて、昔は必ず客より挨拶第一に発句をなす」(『三冊子(さんぞうし)』)という。挨拶第一の発句に、当季の景物を詠み込む約束が自然に生まれ、脇(わき)の句を期待しないいわゆる地(じ)発句にも、この約束は適用された。ただし千句の場合には、当季を無視し、第一の百韻(ひゃくいん)から順に春4、夏3、秋4、冬3という四季の布置がくふうされている。また芭蕉などは、時と場合によって「発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等、無季の句ありたきもの」(『去来抄』)と考えていたらしいが、実際に雑(ぞう)の発句がつくられるのはごくまれであった。近代の俳句はこの約束を継承し、手垢(てあか)によごれた発句の季語を洗い直すことになったが、季語に象徴される挨拶性もまた俳句の詩性として生き残ることになる。連句の付句は、前接する付句と一体化して完結するが、前句をもたない発句は、それ自身の内に2句1章の構造を抱え込まなければならない。そのために1句を二分するための切字が要請され、「切字なくては発句の姿にあらず、付句の体なり」(『三冊子』)といわれた。俳句はこの切字を継承し、その働きによって生み出される「行きて帰る心の味」(同)を、俳句特有の詩性となすに至った。
[乾 裕幸]
17世紀の中葉約50年間(寛永(かんえい)期~寛文(かんぶん)期)にわたって京都を中心に栄えた俳諧を、俳壇の指導者松永貞徳(ていとく)の名から貞門(ていもん)俳諧とよぶ。貞徳直系に山本西武(さいむ)、安原貞室(やすはらていしつ)、北村季吟(きぎん)、冠鶏井令徳(かえでいりょうとく)、高瀬梅盛(ばいせい)ら、傍系に松江重頼(しげより)、野々口立圃(りゅうほ)、斎藤徳元(とくげん)、半井卜養(なからいぼくよう)、石田未得(みとく)らがおり、それぞれ全国に門人を擁した。貞徳は、和歌・連歌(れんが)に用いない俗語や漢語を「俳言(はいごん)」とよび、庶民の日常語を文学言語として初めて公認して、近代詩歌への道を開いたが、俳風は、縁語・懸詞(かけことば)や、甲を乙に譬(たと)える「見立て」など、ことば遊びによる滑稽感の表出に終始し、類題句集の嚆矢(こうし)『犬子(えのこ)集』(重頼撰(せん)、1633)から、『誹諧発句帳』(立圃編、1633)、『鷹筑波(たかつくば)』(西武編、1642)、『崑山(こんざん)集』(令徳編、1651)、『玉海(ぎょっかい)集』(貞室編、1656)などに至っても、時代や編者による変化はほとんどみられなかった。
しをるるは何かあんずの花の色 貞徳
[乾 裕幸]
この貞門のマンネリズムを打ち破り、蕉風俳諧の成立を促したのは、1670年代(寛文中期~延宝(えんぽう)期)商都大坂を中心に行われた、自由で闊達(かったつ)軽妙な談林(だんりん)俳諧である。談林においても、指導的役割を演じたのは連歌師西山宗因(そういん)や漢学者岡西惟中(いちゅう)ら知識人であるが、その主力は新興町人階級であり、蓄財への意欲を象徴するかのごとく句数を競う矢数(やかず)俳諧が流行、井原西鶴(さいかく)が一昼夜に2万3500句を吟じて世人を驚かせた。一方惟中は、中国古代の哲学者荘子(そうし)の寓言(ぐうげん)論を借りて談林の正統性を主張、貞門との間に激しい論戦を展開した。京都に菅野谷高政(すがのやたかまさ)、江戸に田代松意(たしろしょうい)らがおり、発句の鍵語(キー・ワード)を抜いて仕立てる「抜け」(または「謎(なぞ)」)など、奇抜異体の俳風をもてあそび、変風への一因をなしたことは注目に値する。
すりこ木も紅葉(もみじ)しにけり唐辛子(とうがらし) 宗因
[乾 裕幸]
芭蕉らの蕉風俳諧は、談林の異体志向がはからずも生み出した異国趣味、浪漫(ろうまん)主義のうえに開花する。1684年(貞享1)の山本荷兮(かけい)編『冬の日』がそれであるが、これを皮切りに、『春の日』(荷兮編、1686)、『阿羅野(あらの)』(同、1689)、『ひさご』(珍碩(ちんせき)編、1690)、『猿蓑(さるみの)』(去来(きょらい)・凡兆(ぼんちょう)編、1691)、『炭俵(すみだわら)』(野坡(やば)ら編、1694)、『続猿蓑』(沾圃(せんぽ)ら編、1698)などが編まれ、のちに『俳諧七部集』としてまとめられた。これらの書は、芭蕉の指導と、榎本其角(えのもときかく)、服部嵐雪(はっとりらんせつ)、向井去来、内藤丈草(じょうそう)ら門人の研鑽(けんさん)の跡をとどめ、和歌の「あはれ」を通俗性によって止揚し、「さび」の美を生み育てていく過程や、日常性のなかに想像力の解放を企てる「かるみ」への展開の模様を伝えている。
森川許六(きょりく)は、芭蕉の説として、異質のイメージをもつ2素材を配合して発句を詠む「取合せ」論を鼓吹したが、これは近代の俳句にも通じる俳理論であった。
1694年(元禄7)芭蕉が没すると、支柱を失った蕉門は四分五裂し、其角の「洒落(しゃれ)風」を継ぐ水間沾徳(みずませんとく)らの江戸座、各務支考(かがみしこう)の流れをくむ盧元坊里紅(ろげんぼうりこう)らの美濃(みの)派、岩田凉菟(りょうと)・中川乙由(おつゆう)系の伊勢(いせ)派などが栄え、理の勝った軽薄卑俗な俳風が流行した。こうした時流を嘆き、杉山杉風(さんぷう)門の中川宗瑞(そうずい)らが著した『五色墨(ごしきずみ)』(1731)は、少数ながら花鳥閑雅を喜ぶ人々の共感を得て、中興期の蕉風復興運動にバトンを渡した。
[乾 裕幸]
1770~80年代(安永(あんえい)・天明(てんめい)期)を中心に行われた中興俳諧を代表する俳人は、京都の与謝蕪村(よさぶそん)・炭太祇(たんたいぎ)・高井几董(きとう)、江戸の加舎白雄(かやしらお)・大島蓼太(りょうた)、大坂の勝見二柳(じりゅう)、名古屋の加藤暁台(きょうたい)、伊勢(三重県)の三浦樗良(ちょら)、加賀(石川県)の堀麦水(ばくすい)・高桑闌更(らんこう)、播磨(はりま)(兵庫県)の松岡青蘿(せいら)など全国に及び、一派に統一されることはなかったが、蕪村の離俗(りぞく)論に代表される脱俗への志向、古典的・浪漫的な風韻、耽美(たんび)趣味、清新な叙情に彩られた俳風を共通の特徴とした。
行く春や重たき琵琶(びわ)の抱き心 蕪村
[乾 裕幸]
19世紀に入るころ(寛政(かんせい)末~享和(きょうわ)期)には中興俳人はことごとく没し、蕪村門の江森月居(げっきょ)、暁台門の井上士朗(しろう)・藤森素檗(そばく)、蓼太門の安井大江丸(おおえまる)、白雄門の鈴木道彦・建部巣兆(そうちょう)、「俳諧独行の旅人」と自称する夏目成美(せいび)らがわずかに風雅を振るうのみで、俳壇の大勢は俗化の波に流されていた。そうしたなかにあって、あくの強い個性と、生活感情を生のまま表白する句境とによって独創性を示したのは小林一茶(いっさ)であるが、放浪癖などのため一家をなすには至らなかった。
春雨や喰(く)はれ残りの鴨が鳴く 一茶
1830年代(天保(てんぽう)期)に入ると、俳諧の作者層はますます下降し、俳風は救いがたいほど低調に陥った。成田蒼虬(そうきゅう)、田川鳳朗(ほうろう)、桜井梅室(ばいしつ)を天保の三大家とよぶが、ただ芭蕉を崇(あが)め、『俳諧七部集』を聖典視するのみで、新鮮な魅力はない。その後、志倉西馬(しくらさいば)、穂積永機(ほづみえいき)、三森幹雄(みきお)など著名な宗匠が現れたが、低俗な季題趣味と小理屈に終始し、明治近代に至って正岡子規から「天保以後の句は概(おおむ)ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調といふ」(『俳諧大要』1895)と一蹴(いっしゅう)された。
[乾 裕幸]
1880年代、『新体詩抄』(1882)や『小説神髄』(1885~86)などにみられた、ヨーロッパの文学概念による近代化の試みは、俳壇にまで波及し、前田林外(鷦鷯子(みそさざい))、森三渓(さんけい)らによって俳諧(はいかい)が文学であるかどうかの議論が展開された。正岡子規(まさおかしき)の俳句革新はこうした状況のなかで行われたのである。子規は、月並宗匠によって偶像化されていた芭蕉を批判し、さらに俳諧の連句を非文学として否定、発句のもつ月並的体質を退け、俳句に自律する詩的世界を志向した。1894年(明治27)洋画家中村不折(ふせつ)から「写生」を学び、その方法を根拠に与謝蕪村を称揚した(『俳人蕪村』1897)。印象鮮明な蕪村の写生は「日本派」一党の俳句の指標となり、これに拠(よ)って、内藤鳴雪(めいせつ)、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)、高浜虚子(きょし)、松瀬青々(せいせい)ら多彩な俳人が活躍した。
鶏頭(けいとう)の十四五本もありぬべし 子規
[乾 裕幸]
1908年(明治41)大須賀乙字(おおすがおつじ)が『アカネ』誌上に『俳句界の新傾向』を掲げ、子規の客観的写生に対して象徴的暗示を主張したのがきっかけとなり、いわゆる新傾向運動が展開された。運動の中心となった碧梧桐は、心理的、感覚的な描写による実感の表出に努め、また当時文壇を支配した自然主義の影響下に「接社会」と称して、現実生活、社会生活への接近を心がけた。1910年、「中心点を捨てて想化を無視する」ことにより、「人為方則を忘れて、自然の現象そのままのものに接近する」という「無中心論」を唱えたため、季題の存在意義と定型の必然性に翳(かげ)りが生じた。この運動は、もともと写生によって失われた人間回復の志向を底流にしていたから、一時全国を風靡(ふうび)して、中塚一碧楼(いっぺきろう)、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)らの独自な世界を生み育てたが、やがて定型と季題を無用とする自由律俳句へと発展したのである。
老妻若やぐと見るゆふべの金婚式(コト)に話頭(カタ)りつぐ 碧梧桐
[乾 裕幸]
子規の生前から碧梧桐とは異なる傾向をみせていた高浜虚子は、一時夏目漱石(そうせき)の刺激を受けて小説を執筆していたが、新傾向俳句の現状に疑問を抱き、1912年(大正1)『ホトトギス』誌上で俳句の本質論を展開、季題趣味・定型・平明調を唱えてこれを批判、「守旧派」の旗印を掲げて俳壇に復帰した。こうした主張を実践した有力俳人に、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)らがいる。ところが、虚子の説は、1917年ごろを軸として主観写生から客観写生へと大きく転回する。俳句の制作を通じて、「悟り」の境地に至る、つまり人間形成を目ざすというのであるが、自然現象の精細な写生の追求は、やがて無感動な客観句の堆積(たいせき)を生んだ。1927、28年(昭和2、3)、虚子は、文学を階級闘争の手段とするプロレタリア文学への反発から、俳句は「天下の閑事業」であり、人事の葛藤纏綿(かっとうてんめん)とは無縁の「花鳥諷詠(ふうえい)」の文学であると説き、その代表的な作者として高野素十(すじゅう)を推したが、阿波野青畝(あわのせいほ)、山口青邨(せいそん)、星野立子(たつこ)、中村汀女(ていじょ)、富安風生(とみやすふうせい)らをこれに加えることができる。
桐一葉日当りながら落ちにけり 虚子
[乾 裕幸]
この花鳥諷詠論に対し、1931年(昭和6)ごろから取材の自由と人間性の回復を目ざすいわゆる新興俳句運動が表面化した。水原秋桜子(しゅうおうし)は、瑣末(さまつ)な自然現象の追求に腐心する虚子一門を批判、想像力と叙情的な「調べ」を重んじ、連作による感情の流露を試みた。取材の手を都会に伸ばした山口誓子(せいし)は、無機質な人工的素材をモンタージュの方法によって俳句に取り込み、虚無的な内面世界を表現してみせた。これらの有季論者に対し、日野草城(そうじょう)、吉岡禅寺洞(ぜんじどう)らは、俳句は17音節の現代詩であるという自覚から無季俳句を容認、この派もまた『天(あま)の川』『京大俳句』『旗艦』などの俳誌に拠(よ)って、新興俳句運動を推し進めた。この運動はさらに多様化し、社会主義イデオロギーの影響を受けた古家榧子(ふるやひし)(榧夫(かやお))、宮田戊子(ぼし)、東京三(ひがしきょうぞう)(秋元不死男(ふじお))らによってリアリズムが主張されたが、1937年日中戦争の勃発(ぼっぱつ)によって中断され、以後は戦時下における俳句のあり方が問われるに至るのである。
啄木鳥(きつつき)や落葉をいそぐ牧の木々 秋桜子
夏の河赤き鉄鎖のはし浸(ひた)る 誓子
クリスマス地に来(き)ちちはは舟を漕ぐ 不死男
[乾 裕幸]
俳人の戦争との向かい合い方は一様ではなく、西東三鬼(さいとうさんき)、富沢赤黄男(かきお)らは否定的に、長谷川素逝(そせい)らは肯定的に詠んだ。人間探求派とよばれた中村草田男(くさたお)、加藤楸邨(しゅうそん)、石田波郷(はきょう)らは、俳句によって戦時下の生き方を問おうとし、人生を対象化した。しかし、新興俳句運動に対するたび重なる弾圧(1940、41)や「日本俳句作家協会」(1940)、「日本文学報国会」(1942)の結成など、言論の統制が強まり、花鳥諷詠に避難しなければならぬ暗黒の時代が訪れたのである。
[乾 裕幸]
第二次世界大戦後、戦時下の翼賛体制に馴(な)らされた俳人の感性は、ただ放心状態に陥るしかなかったが、1946年(昭和21)桑原武夫(くわばらたけお)の「第二芸術論」が俳句の現代的意義に疑問を投げかけたのを契機とし、日本文化のあり方が問い直されることになる。翌47年、現代俳句協会が結成され、『天狼(てんろう)』が創刊された。そのなかで、誓子・三鬼らは「根源俳句」の語によって現代俳句の根拠を追求し、草田男、楸邨、金子兜太(とうた)、鈴木六林男(むりお)らは「社会性」を標榜(ひょうぼう)して前衛俳句に進んだ。現在結社は200を超え、個人誌の創刊も相次ぎ、女流の進出にも目覚ましいものがあって、女性俳句懇話会が結成されてもいる。今日ほど俳句が多様化し、また大衆化した時代はないといえよう。
[乾 裕幸]
外国における俳句受容は、文化・風俗・言語の相違を超えて、年ごとに盛んになりつつある。フランスの有名な文芸誌『NRF(エヌエルエフ)』が「ハイカイ特集号」を出し、俳句の紹介・仏訳・ハイク作品を掲載して、オーストリアの詩人リルケに強い影響を与えたのは1920年であり、俳句はそれからヨーロッパにも伝えられた。俳句の受容国は今日では、フランス、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリア、ロシア、ポーランド、オランダ、ブラジル、カナダ、中国、アフリカなど10か国を超えている。俳句の理解は各国で当然異なるが、『ランダムハウス・ポケット辞典』(1978)の「HAIKU (1)日本の主要な詩形式で、高度にイメージ喚起力のある示唆(アリュージヨン)を用いる三行詩。(2)この形式の詩」あたりが、代表的な見解であろう。(1)は翻訳・研究の対象としての日本の「俳句」、(2)は外国人の創作する「ハイク」である。日本文学中、五・七・五調の俳句の翻訳はとりわけむずかしく、蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」のレオン・ゾルブラッドによる英訳“The sea in the spring――/All day long it rises and falls,/Just rises and falls.”などに苦心の跡がしのばれる。俳句の研究と創作はアメリカがもっとも盛んで、そのための機関であるアメリカ・ハイク協会やウェスタン・ワールド・ハイク協会があり、また国際的な定期購読者をもつハイク雑誌『モダン・ハイク』があって、毎年アメリカ合衆国芸術奨励基金を得て活動している。最近中国でも、芭蕉俳諧(ばしょうはいかい)(連句・発句)の漢訳、五・七・五の17字からなる「漢俳」の創作が盛んである。俳句はいまや国際的な文学的地位を得たのだといえるだろう。
[乾 裕幸]
『山本健吉著『昭和俳句』(角川新書)』▽『楠本憲吉・松井利彦他編『俳句シリーズ 人と作品』全18巻(1967・桜楓社)』▽『尾形仂著『座の文学』(1973・角川書店)』▽『井本農一・川崎展宏・堀信夫編『俳句のすすめ』(有斐閣新書)』
総合俳句雑誌。1952年(昭和27)6月創刊。角川(かどかわ)書店を経て、角川学芸出版発行。初代編集長は石川桂郎(けいろう)。創刊号の編集後記に「私どもは『俳句』に接頭語も接尾語も附することなく、大通りを歩かせたいという念願から『俳句』という誌名を選んだ」とある。現代俳句各派の大家・中堅・若手の作品のほか、古俳句や近代俳句史の研究、当代俳壇における諸問題についての評論の発表の場を提供する。1955年に新人の登竜門としての角川俳句賞を設定するとともに各年度の俳壇動向を示す別冊『俳句年鑑』を発行。平成に入ると女性を中心とした俳句人口の増大に伴い、実作向上を強調した企画が続いた。
[鷹羽狩行]
〈俳諧の句〉を縮約した〈俳句〉という語は,俳諧集《尾蠅(おばえ)集》(1663),上田秋成の《胆大小心録》(1808)などに用例がある。しかし,江戸時代には一般化せず,この語が5・7・5音の組合せを基本にした定型詩を指すようになったのは,明治時代,すなわち正岡子規による俳句革新が行われた過程においてである。それまでは発句(ほつく)という言い方が普通であった。発句とはもともとは連句における最初の句だが,江戸中期以降,発句のみが単独に作られることが多くなっていた。1895年,子規は,〈俳句は文学の一部なり〉とはじまる《俳諧大要》を発表したが,彼の俳句革新とは,俳句を同時代の文学として把握することであった。従来の俳人たちの句を月並(つきなみ)と称してその文学性の貧しさを批判し,また,歌仙(かせん)などの連句を〈文学に非ず〉(《芭蕉雑談》1893)と否定した。近代文学の条件であるテーマの一貫性が連句にはないと見たのである。以上のような経過のうちに定着した俳句は,子規にはじまる近代の定型詩とみなしてよい。発句と俳句はその形式は同一だが,俳句はもはや連句の最初の句ではなく,それ自体で自立した詩となった。
子規のもとには,河東碧梧桐(へきごとう),高浜虚子,内藤鳴雪,夏目漱石らが集い,新聞《日本》や雑誌《ホトトギス》(1897創刊)を中心にその活動を展開した。こうして近代の文学として歩みはじめた俳句は,しかし,季語や切字(きれじ)を用いる点でも発句と同様であり,そのために前衛派と伝統派が生じた。子規は1902年に死去するが,その子規の死後に〈新傾向俳句〉を唱えて俳壇をリードした碧梧桐はその最初の前衛派であった。当時の自然主義に影響を受けて現実感を重視したこの派の流れは,荻原井泉水,種田山頭火らの〈自由律〉に至る。31年,水原秋桜子の虚子批判に端を発して〈新興俳句〉が生じたが,これもまた前衛派の運動であり,山口誓子,日野草城,石田波郷,西東三鬼,富沢赤黄男(かきお),渡辺白泉らがこの運動を担った。〈新興俳句〉でも現実感がなによりも重視され,篠原鳳作の〈しんしんと肺碧(あお)きまで海のたび〉のような無季句が書かれ,また,高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉などの口語的作品が登場した。無季にしても口語にしても,俳句に現実感(時代性)をとりこもうとする試みであった。60年前後には,社会との主体的なかかわりを強調した金子兜太,鈴木六林男(むりお),能村登四郎,赤尾兜子らが活躍し,金子や赤尾の現代的なイメージを追求した作品は〈前衛俳句〉と呼ばれた。多行形式によって独自の俳句美を書きとめた高柳重信,〈昼顔の見えるひるすぎぽるとがる〉などの句で日本的風土とは異質の言語美をもたらした加藤郁乎,彼らもまた金子らとともに今日の前衛派をなしている。一方の伝統派は,俳句を〈花鳥諷詠〉と規定した高浜虚子に代表される。《虚子句集》(1928)の序によると,その〈花鳥諷詠〉とは四季の変化によって起こる自然界の現象,ならびにそれに伴う人事界の現象を諷詠することであり,俳句は古典的な季節詩ということになる。こうした俳句観は,評論《挨拶と滑稽》(1946)で俳句に〈滑稽〉〈挨拶〉〈即興〉の3要素を指摘した山本健吉などの理論に支えられている。山本が芭蕉などの発句を介してその理論を引き出したように,伝統派は発句と俳句をほぼ同一視している。虚子もさきの《虚子句集》の序で〈俳諧の発句,即ち今日いふところの俳句〉と述べている。
飯田竜太は,俳句は〈日本人なら誰もが持っている感性〉(《山居四望》1984)を基本とする詩だと説いているが,前衛派と伝統派の相克を通して,俳句はそうした共通の感性を不断に形成しているといえよう。中村草田男の〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉,加藤楸邨(しゆうそん)の〈鮟鱇(あんこう)の骨まで凍ててぶちきらる〉などは,俳句による日本人の感性の刻印であった。
執筆者:坪内 稔典
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五七五の17音からなる日本独特の短詩。季語・切字を特徴とするが,季語を排した無季俳句や,定型を破って散文的な表現法をとる自由律俳句の主張もみられる。俳句は「俳諧の句」の略で,江戸時代には発句と連句の両方をさしたが,一般的ではなかった。明治期に正岡子規が「発句は文学なり。連俳は文学に非ず」(「芭蕉雑談」)として,付句を切り離して独立した発句を俳句とよび,これが定着した。子規没後はその門の双璧といわれた河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)・高浜虚子(きょし)が俳壇を二分して活動を継承。昭和期には新興俳句運動とよばれる新たな改革がおこった。第2次大戦後は俳壇も賑やかさをまし,俳句人口も広がって現在に至る。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…一定の季節と結びつけられて,連歌,俳諧,俳句で用いられる語を季語(または季題)という。少数の語の季語化は,《古今和歌集》以下の勅撰和歌集でなされていたが,季語化の意識が強くなったのは,四季の句をちりばめて成立する連歌においてである。…
※「俳句」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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